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戦争の西洋的流儀

ハリー・サイドボトム(Harry Sidebottom)による『ギリシャ・ローマの戦争』(岩波書店)を読む。

ギリシャ・ローマの戦争 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

ギリシャ・ローマの戦争 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

まえがきにあるように、著者の主張は「戦争は、一つの文化を他の文化から識別する主要な手段の一つと考えられた」こと。

古典文化の内にあっては、戦争は、「男性的なもの」を構想する際にも、男女の差異を考察する際にも、中心的な意味を持った。最も身近なところでは、戦争から生まれたさまざまな観念が、個人が自己の人格を理解し形成するのに用いられた。




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そして、このような戦争による「観念」「イデオロギー」として、現代西欧まで連綿と流通している「戦争の西洋的流儀」(Western Way of War)を著者は問題化する。「戦争の西洋的流儀」と「その対立物」は文化が創り出したものである。が、しかし、それは、「真実なもの/自然なもの」のように見える。
いったい「戦争の西洋的流儀」は、どのように生まれ、なにゆえ創られ、なにゆえに保持されたのか、と。

では「戦争の西洋的流儀」とは何か。

敵の全滅を目指して、正面から決戦を挑もうと欲することであり、理想的には重装歩兵による白兵戦の形で行われる。勝敗を決するものは、鍛錬によってある程度陶冶される勇敢さである。それは、しばしば戦士が政治的自由を持った土地所有者であること、いわゆる「市民的制度」(すなわち「ポリス市民団=戦士集団」の体制)と結びついている。この「戦争の西洋的流儀」はギリシャ人によって生み出されたもので、ローマ人によって受け継がれ、そして、西欧社会を生き永らえ、ルネサンス期に再び開花し、それ以降近代西欧へと直接伝わっていったと考えられている。



サイドボトムは、この「戦争の西洋的流儀」なるものをイデオロギーとして捉え、それを批判するのだが、それはこの「戦争の西洋的流儀」が「実体」として流通し、西洋とそうでないものを「識別」する強力かつ執拗な手段として利用されている「現実」があるからだ。

「実体としての」戦争の西洋的流儀。サイドボトムはその提唱者について多言を要しない。しかし訳者の一人である澤田典子氏が解説でコンパクトにまとめている。参照したい。

「戦争の西洋的流儀」は、アメリカ有数の軍事史家ヴィクター・ハンソン(Victor Davis Hanson)が『The Western Way of War』以来一貫して主張している概念であるという。彼は「戦争の西洋的流儀」の継続を前提として、古代から現代の戦争について包括的に論じている。

西洋人と非西洋人の間で戦われた、古代から現代までの九つの大戦闘を取り上げ、自由と民主主義を信奉する西洋人がその自由と民主牛義を守るために「戦争の西洋的流儀」に則って非西洋人と戦った結果、西洋の軍隊には必ず勝利がもたらされた、と説く。1942年のミッドウェー海戦もそうした戦闘の一つとして検討されており、日本軍の大敗北が「戦争の西洋的流儀」の論理に沿って説明される。




澤田典子 「戦争の西洋的流儀」によせて p.169

過去2000年間敵対勢力をことごとく破り、徹底的な破壊力を誇ってきた西洋の軍事的優越を支えた要因──それが、集団で正面から激突戦を指向する伝統である。真昼の戦場で、重く暑苦しい装備に身を包んだ兵士たちが繰り広げる、短時間の、極めて残酷で恐怖に満ちた戦闘──それこそが、「戦争の西洋的流儀」である。
したがって、その論理的帰結は、「戦争の西洋的流儀」に則っていない「非西洋人」に対する徹底した侮蔑が「そこにおいて」生まれるということである。そのために、遡及的に造られるのである。それを「真実なもの/自然なもの」として看做したいがために、保持するのである。
戦争の概念が他者を規定し、自己の人格を形成する。社会や文化、思考の枠組を決定する。

自由と民主主義のために自発的に従軍する市民兵士から成り、厳しい訓練や軍紀に特徴づけられる「文明的」な西洋の軍隊は、飛び道具に依存し、奇襲やゲリラ戦法を駆使して決戦回避をはかる「臆病」で「野蛮」な非西洋の軍隊とは対照的に、正々堂々とした正面からの接近戦を求め、それゆえに圧倒的な軍事的優位を保ってきた、というのがハンソンの議論の骨子である。




「戦争の西洋的流儀」によせて p.171

この部分を読んで思い出したのが、スーザン・ソンタグが「9・11同時多発テロ」に関してアメリカ中の反発を招いた『ニューヨーカー』に書いた文章。ノーム・チョムスキーエドワード・サイード以上の憤激と反響を呼び起こした彼女の指摘だ。
それは──「臆病」なのはテロリストではなく、アメリカ人である、テロリストは身体ごとビルにぶつかった、しかるにアメリカ人は遠くからミサイルを撃つだけだ、と。

いまだに続いているアメリカによるイラクの爆撃を自覚しているアメリカ人は何人いるだろう。また、「臆病な」という言葉を使うなら、他者を殺すためにみずからすすんで死んでゆく者たちに対してではなく、報復の恐れのない距離、高度の上空から殺戮を行う者たちに対して使うほうが適切ではないだろうか。勇気(これを、道義的に言って中立の価値としてみた場合)を云々するならば、火曜日の殺戮の実行者たちを何と呼ぼうとも、彼らは少なくとも臆病でなかった。




スーザン・ソンタグ『この時代に想う テロへの眼差し』(木幡和枝 訳、NTT出版)p.14-15


スーザン・ソンタグの言葉があれほど反発を招いたのは、アメリカは「戦争の西洋的流儀」に則っていない、と指摘されたからではないか。つまり、アメリカは、それほどまでに「戦争の西洋的流儀」というイデオロギーを信奉しきっているのではないか。

「戦争の西洋的流儀」という絶えず変化するイデオロギーを客観的な現実として無批判に受け入れること、すなわち、古代ギリシャと近代の西欧の間に、戦争の仕方に真正な継続性があったと考えることは、二つの危険な結果をもたらすであろう。
第一に、それは西洋の自己満足へと至る。人々は次のように考えるであろう。──「「市民兵制度」の精神に鼓舞されたギリシャ人が決戦を求めて以来、西洋は戦争において究極的には勝利を得ていた。西洋の戦争の仕方が本質的に同じままであるとするならば、西洋はつねに勝利を得るであろう」。このような考えかたは、「イデオロギー的なクッション」と同じ機能を果たすであろう。


(中略)


第二の危険な結果は、西洋による戦争を抑制するものがなくなること、もしくは弱まることである。この考えによれば、「敵を殲滅しようとするのは、「戦争の西洋的流儀」の本性である。したがって、この結果を生じさせるために何事もはばからない西洋の国家は、ただその本性に忠実であるにすぎない」ということになる。これは、奴隷たるのが蛮族の本性であるから、蛮族に対する戦争を抑制する必要はない、というギリシャ人の考え方と同じくらい有害にはたらくであろう。




ハリー・サイドボトム『ギリシャ・ローマの戦争』p.163-164


The Western Way of War: Infantry Battle in Classical Greece

The Western Way of War: Infantry Battle in Classical Greece

この時代に想うテロへの眼差し

この時代に想うテロへの眼差し


[Victor Davis Hanson 関連]