HODGE'S PARROT

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ガールフレンド、ディスタンクシオン

Jump Rope』に続き、”Commercial Closet”より、ゲイ・マーケットに参入している企業のコマーシャルを見てみたい。

日本を代表する自動車メーカー、トヨタ自動車によるカローラのCM。2005年に北アメリカで放映。レズビアンカップルの「アット・ホーム」な関係を扱った、とてもよい感じのコマーシャルだ。

Girlfriend

このCMを見ていてちょっと思い出したことがある。それは竹村和子フェミニズム』に書いてあったのだが、最近のアメリカ合衆国の調査によると(セス・サンダーズによる国立衛生研究所委託研究)、レズビアンの所得はストレートの女の所得よりも35%以上も多いという結果だ。
従来、レズビアンは社会的に抑圧されているために、所得は低いと見られていた。したがってこの結果は、「きわめて驚くべき」ものだという。

アンケートに基づく統計なので数値に変動があるのだろうが、それに付されたサンダーズのコメントと竹村の分析(ブルデューの理論を用いた「ハビトゥスの傍流─主流の転倒」)が興味深い。

彼によれば、この統計は、市場がレズビアンを高遇しているということではなく、「レズビアン異性愛の女よりも、家計や子供の養育に経済的にも責任をもたねばならないと自覚しており、おそらくそのことが、経済的に有利な伝統的な男社会にレズビアンを進出させている」ことを語っている(『アドヴォケイト』2000年7月4日号)。


少なくとも女の場合は、ジェンダー化しジェンダー化されているハビトゥスを内面化、身体化しない(できない)者ほど、公的領域に出る可能性が高くなる場合があると言えるだろう。



竹村和子フェミニズム (思考のフロンティア)』(岩波書店)p.79

ジェンダー化されジェンダー化するハビトゥスがわたしたちの慣習行動を「身体の必然」として構造化しているものならば、そのホモソーシャルなハビドゥスの内部で、わたしたちは新しいハビトゥスをはたして構築することなど、できるだろうか。

(中略)

しかしおそらく、それは可能である。それを可能にしているものは、ハビトゥスが「構造化する構造である」ということ──つまりどのような慣習行動がハビトゥスによって構造化されていようとも、慣習行動=実践(プラクティス)という個々の行為によってしか、そのハビトゥスは存在することも、存続することもできないということ。
したがってホモソーシャルな共同体は、精神と身体、公と私、男と女、異性愛と同性愛を安定的に分断しているのではなく、じつは強迫観念的なパニック(「同性愛パニック」)によってかろうじて両者を分離しているにすぎない、きわめて不安的なものであるためである。



竹村和子フェミニズム (思考のフロンティア)』(岩波書店)p.80-81