『パピエ・マシン 下 パピエ・ジャーナル』(ちくま学芸文庫)で、デリダがフランス市民連帯協約(PACS)に触れている。
国家の不可分の主権がただ一人の人物に、ただ一人の議員に、何よりも共和国の大統領に受肉している場合に(ただし大統領だけではありません)、男女同数の原理(パリテ)をどう扱うことができるでしょうか。交互に主権をもつのか、一組で、結婚した夫婦のように、フランス市民連帯協約(PACS)によるカップルのように主権をもつのでしょうか。
日曜日のわたしの『ユマニテ』
フランス市民連帯協約(PACS)は、シビル・ユニオンやドメスティック・パートナー法と同様の制度で、性別を問わない二人の成人が安定した共同生活を送れるように定めたもの。これにより、同性愛のカップルが結婚した異性愛カップルとほぼ同等の法的地位と権利を得ることができる。
だたし、このフランスの制度は、「性別にかかわりなく二人の成人が」ということで、ゲイ・カップルだけでなく、「結婚をあえてしない」異性カップルでも PACS の対象になる。
そしてさらにデリダは、こうも述べる。
ファロス・ロゴス中心的な不動性と家父長制の側からみるとずっと前から自明なことなのですが、特定の議論において結局のところ、母権主義的な主権の幻想の夢遊病的な形式のもとで利益をえているものがあります。すなわちその本質として<母>として決定された女性の幻想です。みずからを母として、ごく自然に選びだすことのできる存在です。あちこちで異性愛が正常なものであるというおしつけの雰囲気があって、少し途方にくれることがあります。いつも同じ対称性、鏡に映った論理、同じ幻想なのです。少なくとも人間性においては、国民国家でも、その首長でも、王でも人民でも、男性でも女性でも、父親でも母親でも、主権はつねに幻想をまとってしか存在しません。
なんとなくジュリア・クリステヴァを批判しているように感じる、まるでジュディス・バトラーを援護するかのように。
(そういえば日本にはヘテロセクシズムに対し「少しも途方にくれることもなく」、それどころかヘテロセクシズム全開の「自称デリダ研究家」もいる/いたが)
クリステヴァは、それを失うことを自分が恐れているとはけっして認めない認可された異性愛の立場から、母の身体とレズビアンの経験の両方を記述する。
ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』
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