HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

『政党崩壊』3 新進党の実験と失敗と

伊藤惇夫『政党崩壊 永田町の失われた十年』(新潮新書)より。

1994年12月10日、新進党が誕生した。この新党に結集した政党は、新政党、民社党公明新党自由党自由改革連合日本新党など9つの党派。衆参議員合わせて二百十四人、自民党の二百九十五人に迫る大政党であった。しかし、

自民党に対抗し、政権獲得を目指す以上は「数の結集」が最も現実的な手法ではある。だが、それぞれの政党が持つ理念や政策、「党風」や「文化」の違いを棚上げにしたままの「異質、異文化合併」は「寄り合い世帯」の弱味も併せ持つことになる。
(中略)
「たゆまざる改革」と「責任ある政治」──新進党が掲げたスローガンは、この党の構成の複雑さを示すと同時に、「文明の衝突」を避けるための抽象的なものとなった。


p.108-109

そして97年、新進党は、たった三年でその生涯を終えた。
著者は、新進党の分裂・崩壊は、「寄り合い世帯」の弊害よりも、旧新生党内の対立から始まったとしている。つまり、小沢一郎とそれに反発するグループとの対立だ。
96年の総選挙。自民党に対するチャレンジャーとして、新進党は選挙に挑んだ。しかし、敗北を喫した。結党したばかりの民主党との共倒れなど、いくつかの敗因はある。

だが、それ以上に大きかったのは、やはり小沢対反小沢という党内の深い亀裂が、一丸となった選挙を阻んだことだろう。対立感情は小沢をより一層、独断に走らせ、党内のほとんどがまったく名前も知らない新人を比例ブロックの名簿第一に捉えるなどという不可解な事態を引きおこした。全体としての「戦意」が失われるのも当然だ。


p.121

政権交代という唯一の結集軸が大きく揺らいだ「寄り合い世帯政党」に、求心力は二度と働かず、逆に、遠心力が働き始める。新進党は崩壊に向けて走り続けるだけだった。

著者は「小沢の失敗」を分析する。小沢一郎は大きな絵図が描ける政治家であり、政策・理念を真正面に掲げ、摩擦を恐れず突き進む稀有な存在である。が、小沢が見せた特徴的な傾向は、抜きがたい「派閥意識」だった。
派閥の運営と政党運営はまったく違う面を持っている。

派閥はメンバーに対し「カネと選挙とポスト」の面倒を見る代わりに、絶対的な忠誠を求める。反抗するものは派閥を去り、次の選挙で潰されていく。選挙制度が変わったことなどもあって、以前ほど派閥の締め付けは利かなくなったが、かつては派閥のボスが「カラスは白い」といえば、本人にどう映ろうと、カラスは白だった。「右を向いていろ」と言われれば、二時間でも三時間でも右を向いていなければならない。それが派閥であり、派閥の掟だ。
だが、政党は様々な「人種」の寄せ集めである。当然、リーダーの意向に反発するものも出てくる。「誰が見てもカラスは黒いだろう」という人間がいるのが政党である。政党のトップはそうした不満分子をなだめすかしながら、党を運営していくしかない。


p.129-130