HODGE'S PARROT

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『政党崩壊』再び

伊藤惇夫『政党崩壊 永田町の失われた十年』(新潮新書)を読み返していたら、なかなか示唆的なことが書いてあったので、二箇所ほど引用しておきたい。

それは「55年体制」崩壊で誕生した細川政権と、その後の自社さ政権について書かれたところだ。93年の細川政権誕生によって自民党は野に下るも、わずか十ヶ月で政権に復帰、その後、連立のパートナーを「使い捨て」にし組み換えを繰り返しながら、がっちりと権力の中枢を握っている状況を考えさせてくれる。

まずは細川政権=非自民連立政権という「つかの間の夢」の終焉について。

細川、羽田の両政権を表現する際、必ずついて回るのが「非自民」という言葉だ。外部が使うのは一向に構わない。だが、当事者が使った途端に、この言葉は極めて重い意味を持ってくる。「非」であれ「反」であれ、「親」であれ、そのあとに「自民」がついている限り、その呪縛から逃れることはできない。自民党があるからこそ、「非自民」も存在できることになってしまうのである。
細川政権は、結局、「非自民」以外の結集軸を見出せなかったことが崩壊の底流にあったのではないか。羽田政権の失敗は、自民党の一部と組もうとしたことが原因ではなかったか。新たな政権を目指すものたちが、自民党を視野の中心に置き、自民党との距離感を測ることに終始している限り、結局、主役の座には常に自民党が座ることになる。
非自民連立政権は、つまるところ「非自民」を捨てられなかったことで、つかの間の夢に終わったといえるだろう。


p.76

次は「自民党の救世主」社会党の崩壊について。

社会党は)「現状維持」が目的化する中で、本来もっていたはずの政党としてのアイデンティティは薄まり、理念・政策は単なる看板デザインと化して、ついには大切であっても日常生活には役立たない「伝統工芸品」になっていた。だからこそ、首相の座についた村山は九四年七月の臨時国会で「自衛隊合憲」を表明したのを皮切りに、「日米安保は不可欠」で「君が代は国家で、日の丸は国旗」であり「原子力発電所は必要」だし「消費税引き上げは避けられない」と、従来の社会党が掲げ続けてきた基本的な政策を全くかなぐり捨てていけたのだろう。自社両党の間に聳え立っているかに見えた高くて厚い「壁」が実は幻だったわけだ。


p.94

それにしても、旧社会党自民党と連立したとき、その推進役を果たしたのが社会党の中の左派であり、自民党サイドでは(当時)党全国組織委員長だった亀井静香だったというのが──今となっては──興味深いところだ。