HODGE'S PARROT

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研究者同士の絆──アカデミック・ホモソーシャリティ

小谷野敦『評論家入門』をペラペラめくっていたら、さっそく「正論」が。

二〇〇三年に、デーゲンの『フロイト先生のウソ』(文春文庫)や、八幡洋の『あぶない精神分析』(亜紀書房)を読んで、私は、精神分析というのは二十世紀最大のペテンで、たぶん後世から、中世の錬金術のように、思想史的な意味を持つものとして扱われることになるだけだろうと思った。錬金術が金を作り出せなかったように、精神分析は治療の役には立たなかった。

もちろん、精神分析の問題は「ペテン」だけで済まされるものではない。それが「まったき差別」であること、そして、治療/科学という名の下に「人間破壊というべき<矯正/犯罪>」を行ってきた「歴史」を絶対に看過してはならない。
精神分析という「似非科学」の名の下に犯された数々の人道上の犯罪、人権侵害。私たちは、こういった「問題」こそ議論しなくてはならない。

しかし、なぜ、多くの「研究者」たちは、こういった「問題」を正々堂々と議論しないのだろう。それどころか、精神分析屋の「肩を持つ」発言ばかり。人権問題は、なあなあで済まされるべきことでは決してないはずだ。

その理由は、多分、「大学には精神分析の<教員>がいる」、からではないだろうか。それが自分たちの「同僚」だからではないか。
「差別一般」に対して、舌鋒鋭く「反差別言動」を取る「研究者」たちにしても、肝心の「差別知」である精神分析には、その矛先を向けようとはしない。それどころか「セカンドレイプ」的な「言説」を弄する人物もいる始末だ。

セジウィックが分析した「男同士の絆 ホモソーシャル」を、そのまま、「研究者同士の絆 アカデミック・ホモソ−シャル」として置き換えることができるかもしれない。