HODGE'S PARROT

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「日本化するアメリカ」ではないのか

アメリカでは11の州で──州憲法のレベルで──同性結婚を禁じことになった。つまり「結婚」を、「一人の男性と一人の女性からなるもの」と定義・明記する。そして、ブッシュ大統領の地元テキサス州では、早速「高校の教科書」の<改定>を行っている。

Texas approves health books after publishers change definition of marriage [Advacate]

On Wednesday, a board member charged that the proposed new books ran counter to a Texas law banning the recognition of gay civil unions because the texts used terms like "married partners" instead of "husband and wife." After hearing the debate Thursday, one publisher agreed to include a definition of marriage as a "lifelong union between a husband and a wife." Another changed phrases such as "when two people marry" and "partners" to "when a man and a woman marry" and "husbands and wives."

これまで──ブッシュ大統領の地元でさえ──「高校の教科書」では、結婚の定義は「(二人の)パートナー」という<言葉>が使われていたのに、次回の「改定」では、「男女」または「夫妻」という「定義・明記」される、ということだ。

「教科書の改定」という、どこか既視感を拭えないアメリカの事態。しかし、日本に住んでいれば、これが「既視感」どころではない、すでに・つねに「そうである」という<現実>を「誤魔化」すことはできない。アメリカはEUではなくて、日本を目指しているのではないか。

もう一つ。
関東大震災朝鮮人」という記事を興味深く読んだ。
http://www1.jca.apc.org/aml/9902/11145.html

ここに書かれているある種の「美談」。僕はどうしても、舞城王太郎ペドフィリアの犯罪を同性愛者に擦りつけ、同性愛者を虐殺しようとする小説を「面白がって」書いていることを思い出さずにはいられない。なぜ、小児性愛が、「異性愛それ自体」の攻撃には向かわないのに、「同性愛それ自体」の攻撃に向かい、ヘイトクライムを「助長」する<メッセージ>になるのか。

これは、関東大震災朝鮮人に擦りつけ、「治安」を盾に少数者を「攻撃」する日本人固有の心象と同じなのか──何より問題はそれが「美談」とされているからだ。舞城王太郎は、「権威ある」芥川賞の候補になった──その「美談」が問題なのだ。ヘイトな思考を持つ人物が、周辺ではなく、「中央」に位置すること/しようとしていること、それが問題なのではないか。
なぜ、他者への憎悪を増幅させるのか──誰がそれに<加担>しているのか。
なぜ、このことが「人権問題」として「問題化」されないのか。

僕が知る限り、舞城の「憎悪=美談」を指摘した人物はいない。それどころか、舞城を持ち上げているのは、どちらかというと「リベラル」を自称する批評家たちなのではないか。左/右翼が「合体」して、協同して一つの意志を持ったら、それは「全体主義」と呼ばれるのではないか。

アメリカのTV伝導師は、なるほど、同性愛者への「憎悪」を掻き立てる「戦略」をとっている。しかしそういった人物が、誰に、どのように「支持」されているのか。
もし、TV伝導師が「中央」に位置することになったら、もし、その「メッセージ」が<公式>のものになったら、アメリカは、かつての/現在の日本の状況と同じになるだろう。

日本は本当にアメリカの言いなりなのか。アメリカが日本をマネしているとは、まったく考えられないのだろうか。

世論は恐るに足らない、もしくは、メディアによって条件ずけられていると権力側はみなしたわけです。しかも、真っ向からぶつかろうとするこうした意志は、権力側が何年も前から維持してきた恐怖ゲームの一部です。公安に関するキャンペーン全体は──信用してもらい、政治的に採算がとれるようにするためなわけですが──政府が合法性に先んじて迅速に行動できるということを証明するような華々しい措置によって支えられなければならないのです。今後は法律よりも治安が優先するというわけです。権力側にしてみれば、法律という工廠には市民を守る能力がないことを示したかったのです。


ミシェル・フーコー「今後は法律よりも治安が優先する」 (ミシェル・フーコー思想集成Ⅵ、筑摩書房