HODGE'S PARROT

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頽廃と倒錯

さっきN響アワーで、ワルベルク指揮によるヒンデミット『画家マチス』が放送されていた。それを見ながら、ちょっと思いついたことがあるので、メモしておきたい。

クラシック音楽ファンには言わずもがなであるが、このヒンデミットの曲には、必ずと言っても良いほど、ある「エピソード」がついてまわる。
指揮者フルトヴェングラーとナチズムとの関連である。

パウルヒンデミットユダヤ人ではないが、「文化ボルシェヴィキ」としてナチスに忌避された音楽家であった。その音楽は「頽廃音楽」というレッテルが貼られた。言うまでもなく、「頽廃芸術」の烙印を押された作品/アーティストには、「悪意」と「中傷」が叩きつけられた。そして、そういった「差別」の「片棒」を担いだ人物の中には、当時の高名な「音楽学者」たちも含まれていた。

フルトヴェングラーナチスとかなり深い関わりがあったのだが(宣伝相ゲッベルスと握手している写真がある)、しかしヒンデミットを「擁護」したという「事実」によって、戦後の活動を早期に再開することができた……。

そんなことを考えながら、テレビを見ていた。そして、川原泉の「ヘイト・スピーチ」を思い出した。

「う〜む いささか同性愛的」

「的じゃなくてそのもの!ホモ ゲイ 性的に倒錯したバイキンくんだ」



白泉社文庫「中国の壷」収録、「Intolerance」)

こういった差別的なことを、「子供が見る」マンガに書く川原泉とは、いったいどういう人物なんだろう。中でもとくに気になるのは、「バイキン」というレトリックだ。このことは、後で詳しく論じたいと思う。今日のところは、とりあえず参考となるテクストを引用するにとどめたい。

同性愛者に対する迫害にしても、かつての魔女狩りやレプラ患者の排除とは性格が異なる。たしかにゲイは二元的な排除の対象とされているけれど、同時に治療され健全化されなければならない病人として位置づけられる。かつて男色者は神に背いた罪人だったが、十九世紀になると他とは違う自分の顔を持つ人物になるんです。なにしろ病人だからね。病人に拘禁された患者は名前を与えられ、一人一人診断され、病名を克明に記録される、ようするに個人化される……


笠井潔オイディプス症候群』より

コットン・マザーは、かつて梅毒を、「神の正しき審判が我らの時代のためにとっておかれた」罰と呼んだ。この話を初めとして、十五世紀の末から二十世紀の初頭にかけて梅毒について言われた世迷いごとを思い出してみると、多くの人々がエイズを隠喩的に──疫病のような、社会に対する道徳的審判とみなそうとするには驚くにあたるまい。非難屋のプロともなれば、セックス経由で伝わる致死の病気が提供してくれる修辞攻勢の機会には抗しきれないだろう。


スーザン・ソンタグエイズとその隠喩』より

ドゥルーズ『感覚の論理』

購入
ISBN:4588158015
こんな高価な本を買うのは久しぶり(昔、国書刊行会から出ていたヘンリー・ジェイムズ集を買ったときのことを思い出す)。ま、半分画集だと思えば。
それにしてもベーコンの絵はいいな。まさに「器官なき身体」。

感覚器官系の彼方に、しかしまた経験された身体の極限として、アルトーが発見し「器官なき身体」と名づけたものが存在する。「身体は身体である それはそれだけで存在する したがって器官の必要はない身体は決して感覚器官系ではない 器官系は身体の敵である」。器官なき身体が対立する相手は諸器官ではなく、むしろ有機体と呼ばれているあの諸器官の組織体である。器官なき身体とは激しく徹底した身体である。

ジル・ドゥルーズ『感覚の論理 画家フランシス・ベーコン論』(山県煕訳、法政大学出版局

ヴィスコンティ映画祭

が今週末からスタートする模様。
http://www.asahi.com/event/visconti/

僕がルキノ・ヴィスコンティの映画で一番好きなのは『地獄に堕ちた勇者ども』。あと長過ぎるが難だが『ルードヴィヒ』も好きだ。『山猫』も。とにかくゴージャスだよな。プルーストの『失われた時を求めて』が映画化されていれば、と本当に残念に思う。

それとヴィスコンティの映画で個人的に関心を持つのは──ヘルムート・バーガーアラン・ドロンといったハンサム・ガイばかりではなく──音楽だ。

『ルードヴィヒ』ではワーグナーの『タンホイザー』、とくに「夕星の歌」がとても印象的だし、ロミー・シュナイダーが登場するときに流れるシューマン子供の情景』も忘れ難い。
「夕星の歌」はリストによるピアノ編曲版があるので、ときどきピアノで弾いてみたりする。CDはジャン・イヴ・ティボーデの『リスト トランスクリプション集』(Decca)を愛聴している。
それと音楽で注目なのは、『熊座の淡き星影』で使われるセザール・フランクの『前奏曲、コラールとフーガ』。このフランクの曲は僕の大お気に入りの音楽。演奏はボレット、コラール、キーシンといったところを聴いている。それと『前奏曲、コラールとフーガ』にはガブリエル・ピエルネによる管弦楽編曲版があって、これもなかなか聴き応えがある。