HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

『本当の正しい事』(The Real Right Thing, 1899)


「すると、あなたもお感じになるのですか?」とジョージ・ウィザモア青年は未亡人に尋ねた。ウィザモアは三か月前に亡くなった著名な作家アシュトン・ドインの伝記を執筆する依頼を受けた──それはドイン夫人直々の指名だった。「主人はあなたが一番好きでした。それはもう!」。
ウィザモア青年は伝記執筆のためドインの屋敷に通う。彼は嬉しかった。なぜなら、そこで自分の師であり友人でもあったアシュトン・ドインの「霊」と過ごす特権と贅沢を与えられたからだ──青年は、初日の夫人(黒い喪服を着、扇を閉じたり開いたりしている風変りな女性)との面談から「そのこと」を知っていた。故人の生前にもまさって「親密な交わり」の可能性を期待していた。実際、本当にアシュトンと共にいる感覚に満たされた──ウィザモア青年は亡友との「交信」に没頭する。
しかし「その」最中、青年は何かが「そこにいる」気配を感じた。アシュトンとの「交信」を注視し監視している気配を──それはドイン夫人だった。

ドイン夫人は扇をかざしたまま、興味深げに聴いていた。「気持ちが悪いですか?」
「いいえ──ぼくはこういうのが好きです」
「あの人が──あの、ほんとうに──部屋にいるような感じがしまして?」



『本当の正しい事』(南條竹則坂本あおい 訳、創元推理文庫『ねじの回転』所収) p.347

夫人の許可と協力を得た──と思ったウィザモア青年は、ますますアシュトンの霊と深く親密になっていく(のを感じた)。彼は「恋人との時刻を待つように」夜になるのを心持にした。ドインの秘密に深く立ち入っているという感じに心躍り、しかも故人が「それ」を自分に「知らせたがっている」という思いを抱いて。

ともかく、世上への公開によっていかなる卑俗な光を照てられようとも、ドインが”姿をあらわす”という事実は、幸いなことに残るのだ。かれの登場の仕方はあまりにも立派すぎるかもしれない──ウィザモアのような加担者ですら思いよらなかったほどに。一方、この加担者は、自分のおかれた特異な意識状態をどうしたら他人に伝えられるかわからなかった。それは口で説明できるものではない──ただ感じるしかないのだ。


p.349

ウィザモア青年はドインの霊の存在について解釈する──かりにドインが「いる」としたら、それは自分自身のためというよりも、自分の祭壇に仕える若い司祭のためだ、と。
しかしそんな「幸福な関係」はいつまでも続かなかった。青年はアシュトン・ドインの存在を感じなくなってしまった──なぜだかそれは、今はもう、ここには「いない」ように思えてならない。その思いは青年を悲しくさせ、不安にした。いたたまれなくなり部屋を飛び出すと……そこにドイン夫人がいた。「やっぱり」とウィザモアは思った──「あなたと一緒だったんですね?」。夫人は物言わずとも「いずれおわかりになるわ」という顔つきで何かを仄めかしていた。
「何がいけないというんでしょう」
「わたしはただ、本当にすべきことをしたいのです」


このヘンリー・ジェイムズの『本当の正しい事』(The Real Right Thing)は以下の3つの解釈ができるだろうと思う。

  • アシュトン・ドインの霊は本当に現れた。自分の『伝記』を書くこと──自分の人生に他人が立ち入ること──をやめさせるためにウィザモア青年の前にも、そしてドイン夫人の前にも平等に姿を現し『伝記』の出版を断念させる。あるいは、アシュトン・ドインがウィザモアと夫人の「本当の関係」を知っていることを二人に知らしめるために。
  • アシュトン・ドインの霊はウィザモア青年の前にだけ現れた。『伝記』を書くことによって二人の秘密が公にされることを防ぐために。あるいは、アシュトンとウィザモアの関係を追憶することはたしかに霊との「交信」であるが、それを実際に伝記に書く(何かしら仄めす)ことは誰にとっても、たとえ事実であっても「正しい事」にならないと青年が悟る/青年に悟らせるために。
  • アシュトン・ドインの霊は存在しなかった。ウィザモア青年とアシュトンの秘密の関係を疑っていたドイン夫人が「部屋に何かしら細工」をして、二人の関係を暴くための罠を仕掛けていた──青年が作家との「交信」に浸る証拠を掴むために。目論み通り証拠は掴んだ。だから二人の関係が「正しく」記されるべき『伝記』はもちろん、その「本当の事」が記されることが不可能な嘘の『伝記』の出版自体を取りやめることに。

「ぼくはこわい」
「あの人のことが?」
「その──自分のやっていることが、です」
「一体、どんなおそろしいことをしていらっしゃるっていうの?」
「あなたに頼まれたことです──かれの人生に立ち入ること」
「喜んでなさっていたのではないんですか?」
「かれが喜んでいるかどうか、それが問題です。ぼくたちはあの人を裸にして、人に見せつけている。何といいましょうか──さらしものにしているんです」



p.355-356


[関連エントリー]