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「ギリシャ語が下手だから、ユダヤ人が書いた?」



「福音書」解読 「復活」物語の言語学 (講談社選書メチエ)

「福音書」解読 「復活」物語の言語学 (講談社選書メチエ)

溝田悟士の『「福音書」解読 「復活」物語の言語学』は聖書学に関する著書であり、そのプロローグに、この著書が目指したことが簡潔にまとまっている。ただ、ここで提起されている問題は聖書学/神学にとどまらないだろう。簡潔にメモしておきたい。
新約聖書にはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ福音書が並んでいるが、「どうも、それぞれの福音書はお互いに、内容があちこち食い違っているように見える」という素朴な疑問が生じる。それはキリストの復活に関することであり、パウロキリスト教信仰にとって「最も大切な」ことだと認識していたものである──つまり教義の「核心部分」である。問題は、「最初は『キリストの復活』を単に信じていたらよかったのにもかかわらず、なぜ記述が異なる複数の福音書の復活物語が必要になったのか」である。
しかし学界の関心は「何がどう書かれているか」よりも「イエスは何者だったか」「福音書を記した『著者』の属する社会層や共同体はどんなものか」「福音書の『著者』はギリシャ語の話者だったかどうか」に偏りがちであり、そこにこそ「思い込み」を聖書の議論に持ち込んでしまう原因があるのではないか。もちろん、そういった歴史的関心は重要であるが、「物語文学」で歴史が記述されている場合、読み方一つで再構成される歴史像が左右されてしまう。だから──この著書では「どう読めば内容を持った一つのテクストとして理解できるのか」という点に焦点を当てる。

言語学の方法論を援用したのは、議論の「堂々巡り」(循環論)を避けるためです。循環論とは、例えば、「この福音書ギリシャ語は下手だ。どうもギリシャ人でない人物が書いた文書だ。きっと著者はギリシャ語の上手でないユダヤ人に違いない。だから、イエスのことをよく知る人物だ」というふうに、あやふやな根拠のうえにさらに「空想」を積み上げる「屋上屋を架す」類の主張です。じつは、聖書学者の主張の多くはこのようなもので、支持しようにも、反論しようにも、そもそも根拠と立論があやふやなので、「堂々巡り」となってしまい何の合意にもいたらない場合が多いのです。
しかし、このような方法論をそのまま放置することはできません。なぜなら、「ギリシャ語が下手だから、ユダヤ人が書いた」ことは、直接見に行って確認しようがありません。母語話者でないから下手なのか、母語話者であっても下手なのか、あるいは下手だと考えられているだけで技巧を凝らした結果「ぎこちない」のか、この場合、議論の根拠にするためには母語話者うんぬんは単なる想定にしか過ぎませんし、テクストの内容それ自体にはほとんど関係ありません。さらに悪いことに、テクストの内容とは無関係な議論へと話がそれてしまい、時間を取られるだけになってしまいます。確認できないことを「根拠」にすることは、議論を「循環論」に陥れるか、誤った結論を「定説」として一般の人びとに信じ込ませてしまう危険性が高いといえるでしょう。もう一つ付け加えるなら、新約聖書で使われている「コイネー」というギリシャ語で育てられたわけではない私たち日本人に、新約聖書ギリシャ語の上手や下手を決定するほどの能力は、あまりないはずです。



溝田悟士『「福音書」解読 「復活」物語の言語学』(講談社選書メチエ) p.8-9