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神経症の家族小説は、ホモセクシュアルな欲望を神経症的ホモセクシュアリティへと変形させる


フランスの思想家・活動家であったギィー・オッカンガム(Guy Hocquenghem, 1946 - 1988)の『ホモセクシュアルな欲望』(1972)*1における、「男性身体」と「男性のホモセクシュアリティ」についての議論──問題なのはホモセクシュアルな欲望ではなく、ホモセクシュアリティへの不安であること。

家族はだんだん制度の中になくなるにつれ、ますます頭の中のものとなる。家族は合法的な性的享楽の場である。ただし、誰もが法のもとに享楽するため結婚するという意味においてではもはない。生殖のためのヘテロセクシュアリティという排他的機能の破棄どころではない、資本主義による家族という機能そのものの事実上の崩壊は、そこから各個人によって担われる自由競争の規則を生み出した。個人は家族の者たちを代償しない。ささやかな家族ゲーム(シネマ)を続けているだけだ。享楽の流れの脱コード化に伴い、それは自明の理をも生み出す。あたかも、職人組合(ギルド)の消滅と労働の価値の発見が生産手段としての私的所有を伴うのと同じように。
こうして、その性愛化がまずます増大しながらも、いよいよ他の何ものにもまして禁圧が内面化して行く社会という見かけ上の二律背反は解消する。この性愛化は、特にホモセクシュアリティにとって、罪責感と違反のしるしのもとに置かれる。その表現を許されなければ許されないほど、欲望は希求されるのだ。だからそのようにたくさんのイメージが欲望につなぎ合わされることなど一度もなかった。広告は青年の裸体を撒き散らす。でも、その際こう言っているのだ。欲望されるものは、すでに商売用の違反として解釈されている、と。社会の周辺にいるアウトサイダーの若者たちの間でさえ、日々、無数の会話が家族的な意味作用と人為的罪責感を再構成している。また、異議申し立ての際のフロイト主義のあやしげな成功が、罪責感を生み出すオイディプスの力について極めて雄弁に物語っている。

(……)

ホモセクシュアルな欲望は二つの側面、即ち欲望という側面と、ホモセクシュアリティという側面を持っている。「増大する同性愛化」が存在するのは、ただイメージの作用という点で欲望をより封じ込めやすいという意味でしかない。だから、社会的関係からなる私たちの世界が大部分、ホモセクシュアリティの昇華の上に築かれているというのは本当だ。この社会=世界は他の何ものにもまして、ホモセクシュアルな欲望を食いものにする。そのリビドーの力を代理・表象のシステムに変換することによって。これら代理・表象に挑むこと。

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社会はファルス専制的だ。何故なら、社会での諸関係の総体はヒエラルキー様式のもとに構成され、こうして偉大なファルスというシニフィアンの超越性が顕示される。(……)
もしファルスが本質的に社会的なものなら、アヌスは本質的に私的なものだ。あの偉大なシニフィアンのまわりに、ファルスの超越性、社会の組織化が存在するためには、個人化されオイディプス化された人格において、アヌスが私的なものとされねばならない。「私的なものとされ、社会の外に置かれた最初の器官、それがアヌスだ。貨幣がリビドーの流れの新たな抽象度を表現するのと同時に、まさにアヌスが私的化にそのモデルを与える」(『アンチ・オイディプス』)。昇華されるより他に、アヌスにとって社会的な場所はあり得ない。だから、アヌスというこの器官の諸機能は、真に私的なものであり、人格の構成の場となっている。こうして、アヌスは私的化そのものを表現する。精神分析のいう歴史=個人史(「分析的 アナリティック」という言葉の中に「肛門 アナル」という語を再び見出さずにはいられない)は、生殖能力(性器期)に到達するのに、肛門期の通過を想定している。しかし、肛門期が必要なのは、ファルスを分離し、その超越性を組織するためだ。実際、アヌスに行使される昇華は他のどの器官とも程度が異なっている。つまり、最も低いものから最も高いものへとアヌスを通過させるという意味で、肛門性とは昇華の動きそのものなのだ。

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個人的で慎み深い私的人格の構成は「アヌスから」生じる。それに対し、公的人格の構成は「ファルスから」生じる。アヌスはファルスの両義性、つまりペニスと大文字のファルスとしての二重の存在様式の恩恵に浴していない。確かに自分のペニスを見せるのは恥ずべきことだ。しかし、それはまた同時に光栄なことでもある。というのも、それは偉大なる社会的大文字のファルスに関わり合うことになるから。男性は皆、彼に社会的役割を保証してくれるファルスを持っている。また、どの男性もアヌスを持っているが、それはまったく彼にとってだけの、彼の人格の最も奥深く完全に隠されしまっている。アヌスは社会的関係の内にない。何故なら、アヌスが精緻に個人を構成し、まさにそのことによって、社会と個人の区別を可能にするからだ。



家族・資本主義・アヌス
ギィー・オッカンガム『ホモセクシュアルな欲望』(関修 訳、学陽書房) p.80-85

神経症の家族小説は、ホモセクシュアルな欲望を神経症的ホモセクシュアリティへと変形させる。そこで、ある「行動様式」が対応する同性愛者の「心理的歴史(生育史)」がでっち上げられることにことになる。スペインのホモセクシュアリティのための宿屋には、どんな人でも泊まれる場所がある。だから社会学者もまた、そこに自分の食事を運んできて、精神科医のかたわらで食卓を整えることが出来るのだ。確かに、特別なホモセクシュアルの行動様式が存在しないとは言えない。しかし、通常「行動様式」という概念で理解されるのは、それらを免れる傾向のある性的活動性を封じ込めようと狙う諸性格付けの総体に他ならない。恒常的諸特性を伴ったホモセクシュアルな行動様式の現実は、その様式がそこから生じたオイディプスとまったく同じく決定不可能だ。社会学者がいともたやすく巨大なモル状の社会機械の中に範囲を定める無意識は、充分文明された無意識で、ホモセクシュアリティの深層は、近親相姦のように「中傷されたかなり深い溝」なのだ。

ホモセクシュアルであることの「選択」など存在しない。というのも、そのような体験が可能なのは、ジュネのように「ホモセクシュアルという名で呼ばれることの十分な理由」を発見する努力をする場合に限られるからだ。せいぜいホモセクシュアルの出口、ホモセクシュアルな欲望が生きて行けるためにとる、誤って解除された道があるだけだ。
サルトルもまた、このような歩みを次のように記している。「性対象倒錯は、出生前の選択の結果でもなければ、内分泌上の奇形のそれでもなく、コンプレックスによって決定された受動的成果ですらない。それは、子供が押さえつけられた瞬間に見つけ出す逃げ道なのだ」。その際、子供はこの救出用の酸素が実は毒入りなことをまだ知らない。そう、彼に与えられたのが性対象倒錯、彼が実質的に結び付けられている正常なものの裏側でしかないことを。
ジュネの物語は教訓的だ。彼がサルトルによって聖なるものと呼ばれたのも理由のないことではない。システムを超えて享楽することは、オイディプスの超越的介入のおかげで「悪への意志」に、サルトルがその瞬間を好意をもって描き出す実存的選択になる。ホモセクシュアルの不毛性を選択する形而上学的自由は、生産的リビドーの機能性の代わりとなる。進歩的知識人の目には、欲望が持つ耐えがたいものを「悪への意志」が聖化することで救ってくれると映るらしい。



ホモセクシュアルの「対象選択」と「行動様式」
ホモセクシュアルな欲望』p.109-110

ホモセクシュアルな欲望

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