HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

分割線なき選民 〜 パウロの身振り



バラク・オバマ次期米大統領の演説を読んで、その中に「ゲイもストレートも」というフレーズがあるにもかかわらず、個人的にどうもしっくりこない。それには僕がオバマよりもジョン・エドワーズヒラリー・クリントンを支持だったってこともあるし、同日にカリフォルニア州で同性婚の禁止条項が通過したことも影響しているかもしれない──ゲイの「法的」権利を否定しておきながら「ゲイもストレートも」なんていう<言葉>は何の「慰め」にもならない、何よりも現実的な「希望」を抱かせてほしいし、そして何かしらの「アクション」を示してほしい、もう何日も経っているのだから。
そして何よりも、オバマの演説は、先日も書いたように、どうしても新約聖書の『ガラテヤの信徒への手紙』を僕に思い起こさせる(実際のところはもちろんわからないが)。
つまりパウロである。
パウロは……嫌いなんだよね。ま、『ローマの信徒への手紙』(ロマ人への書)と『コリントの信徒への手紙』(コリント人への書)を読めばわかると思うけど。ちなみにパウロ(タルソのサウル)は、実際に、イエスに会っていないし、もともとはファリサイ派(パリサイ人)であった。

使徒行伝のあとにくるのが「使徒書簡」というやつで、キリスト教教会のごく初期に信徒たちが書いた手紙21通でできている。使徒書簡はみんな口ばっかりでアクション皆無だし、イエスの教えが骨抜きにされるプロセスがかいま見られるという点では貴重だけれど、読みもとのしてはつまらないことおびただしい。
大忙しのパウロは、書簡の最初の13通を書いている。ロマ人への書、コリント人への前の書、コリント人への後の書、ガラテヤ人への書、エペソ人への書……(中略)……ピレモンへの書だ。こいつらは、かれなりのキリスト教教義解釈を説いて回るための、お手軽な説教壇ってわけ。


パウロはとてもいっしょうけんめいイエスを「説明」しようとしている。まずかれにしたがうというのを合理的な活動にしたてあげること。そしてかれのメッセージを非ユダヤ教徒に受け入れられるものに変えて、しかも同時にユダヤ教の教義にも違反しないようにすること。そしてこれを達成するために、かれは神学上のアクロバットを展開し、イエスの道徳的な反抗の教えを組織化された宗教に変換しちゃうのだ。


(中略)


パウロの説明だと、神さまはわざわざ貧乏人とバカな連中を選んでキリスト教徒にするんだって。そうすれば、いずれキリスト教徒たちが金持ちや賢い連中に勝利したときに、神さま自信がもっと強力に見えるから。──コリント人への前の書 1:26-29




ケン・スミス『誰も教えてくれない聖書の読み方』(山形浩生 訳、晶文社) p.192-195

誰も教えてくれない聖書の読み方

誰も教えてくれない聖書の読み方


このケン・スミスの『誰も教えてくれない聖書の読み方』(KEN'S GUIDE TO THE BIBLE)は「実際に」聖書には何が書いてあるのかを、ざっくばらんに、かなり意地悪く、解説したものだ。だから、もしオバマが、パウロの言葉を参照しているのだとしたら……キリスト教キリスト教徒)のかわりに、ここに、アメリカという国家(米国民)を置き換えてみたくなる。「そうすれば……アメリカという国家はもっと強力に見えるから」と。

そういえばスラヴォイ・ジジェクパウロについて興味深い指摘をしているのを思い出した。

パウロは、キリスト教徒の共同体を、神の選民の新しい顕現としてとらえている。つまり、キリスト教徒こそが、真の「アブラハムの子供」なのである。最初の顕現においてひとつの民族集団であったものは、いまや、民族間のあらゆる区別を無効にする(あるいはむしろ、それぞれの民族集団内部における分割線をなくす)、自由な信者の共同体となる。選民とは、キリストを信じる人たちのことなのだ。したがって、ここにあるのは、選民のある種の「実体変化」である。<神>は、贖罪というユダヤ人との約束をまもったのだが、その過程において、選民のアイデンティティを変えたのである。


この共同体概念が理論的(かつ政治的)におもしろいのは、それが、『トーテムとタブー』や『モーセ一神教』のフロイトによって記述されたメカニズム(父殺しという罪の共有)を通じて形成、統一されたのではない共同体の最初の例だからである──ちなみに、革命党や精神分析協会は、この共同体のさらなる例ではないだろうか。「精霊」は、<主人 - シニフィアン>によってではなく、<大義>への忠誠によってまとまった新しい共同体を示している。つまり、それは、「善悪の彼岸」にある──いいかえれば、既存の社会体制における区別の体系を横断しそれを無効にする──新しい分割線を引く努力によってまとまった新しい共同体である。


したがって、パウロの身振りにおいて鍵となるのは、彼があらゆる形態の共同体主義から断絶していることである。彼の宇宙は、「自分の声を発見する」ことを望むような、また自分特有のアイデンティティ、自分流の「生き方」を肯定するようなグループの寄せ集めではなく、絶対的な普遍主義にもとづいて形成された戦う集団である。




ジジェク『操り人形と小人 キリスト教の倒錯的な核』(中山徹 訳、青土社) p.194-195





そして棄教した元福音派宗教学者 バート・D・アーマンは、パウロの「戦略」について次のように指摘をしている。

パウロは苦しみとその恩恵について多くのことを述べている。思い起こしていただきたいが、そもそも彼は自分がイエスの真の使徒を名乗れるのは苦しんでいるからだと考えていたのだ。そこでパウロは苦難を嘆くどころか、むしろそれを喜んでいた。ひとつには、パウロは苦難が人格を涵養すると考えていたことがある──

そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練磨を、練磨は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた精霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(『ローマの信徒への手紙』5章3-5)


また同時に彼は、自分が苦難を被ることによって、同じく苦難の中にある他者に慰めを与えることができると考えていた。

わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみがみちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。(『コリントの信徒への手紙』1章3-7)


またパウロによれば、神が苦難をもたらすのは人に謙虚を教えるためであり、彼すなわちパウロの伝道の成果は神の賜物であって彼自身の優れた能力によるものでないと思い知らせるためである。これはパウロが「身の棘」に言及した有名な一節の要点だ。『コリントの信徒への手紙二』のこの条では、まずパウロは天国のヴィジョンを見たことを述べ、次にこのような特別の啓示を受けた人間であることを思い上がってはならないと言う。

そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしのうちに宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。(『コリントの信徒への手紙二』(12章7-10)



バート・D・アーマン『破綻した神キリスト』(松田和也 訳、柏書房) p.185-187

破綻した神キリスト

破綻した神キリスト