HODGE'S PARROT

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unlearning 「いつまでもそんな目で見るなよ」




ベートーヴェン交響曲第4番を聴きながら、読み終わったばかりのあるマンガを、もう一度読み返してみた。すると始めのほうで、ある男(父親)が、不在の、その場に存在しないはずの息子に、言う-語りかけるセリフが、最初に読んだときと違って、やけに印象的だった。
彼は言う「いつまでもそんな目で見るなよ」と。

ベートーヴェン:交響曲第4番

ベートーヴェン:交響曲第4番


ティーヴン・モートン著『ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク』には、スピヴァクが「フランスの革新的知識人」であるミシェル・フーコージル・ドゥルーズを批判した『サバルタンは語ることができるか?』について、詳しい解説がしてある。
フーコードゥルーズは「抑圧された、力なき者のために語る」のだが、それはインドにおける植民地主義者の独善的な主張と軌を一にする、というのがスピヴァクの指摘するところである。「西洋の善意に満ちた革新的知識人がサバルタンの経験を表象して代わりに語ること」それが問題含みなのである。それはサバルタンの声を「利用」する結果となり、したがって彼らに沈黙を強いることになるのだ。

スピヴァクによるフーコードゥルーズへの批判は、美学的な表象(芸術、文学、映画などのテクストにおける)を支える構造が、同様に政治的表象をも支えるのだという、彼女の前提からはじまる。
美学的表象と政治的表象との構造的違いは一般に言って、美学的表象が現実の再現表象であることを前面に押し出す傾向があるのに対して、政治的表象はこの再現表象の構造を否定するところにある。


スピヴァクにとって、フーコードゥルーズが問題なのは、彼らが自分たちの記述する無力な集団を表象代弁している知識人という自らの役割を隠微している点にある。スピヴァクはこうした消去行為を仮装にたとえて、そこでは知識人が「不在の非表象者として〔…〕被抑圧者たちに自らを語らせている」と言う。


フーコードゥルーズがあらゆる知的情熱を傾けて、主体とは言説と表象によって構築されると示したところで、スピヴァクによれば、社会的・政治的闘争の現実の歴史的用例を議論する際には、フーコードゥルーズも表象の透明なモデルに立ち返ってしまい、そこでは「抑圧された主体が自分で語り、行動し、自分の状況を知る」とされるのである。


(中略)


マルクスによれば、貧しい自作農の表象とは二重の意味を持っており、それはドイツ語の用語では darstellen(美的肖像画としての表象)と、 vertreten(政治的代理人による代表行為)とによって弁別される。スピヴァクによれば、フーコードゥルーズの対談では、この表象の二つの意味が混ぜ合わされている。なぜなら無力な集団をまとまった政治的主体として構成するためには、(美的)表象の過程が彼らに代わって語る政治的代弁の声に従属される必要があるからだ。
こうした混同の結果として、この美学的肖像──無力な人びとをまとまった政治的主体として象徴的に表象すること──が、しばしば彼らの政治的欲望と関心の透明な表現とされるのである。


より重要なのは、このような混同が左翼の知識人が代弁したがる被抑圧的集団に被害を及ぼす結果を生む可能性があるというスピヴァクの主張だ。フーコードゥルーズの場合、こうした集団には工場労働者や西側世界の刑務所や精神病院に収容されている人びとを含む。





ティーヴン・モートンガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク (シリーズ現代思想ガイドブック)』(本橋哲也 訳、青土社) p.98-99

むしろスピヴァクが強調するのは、どんな読解行為も(特に西洋の大学の教室においては)社会的・政治的に深い意義をはらんでいるということだ。たとえば「結末が開かれた現実的政治力学」のなかでスピヴァクは、「第三世界労働の搾取こそがアメリカ合衆国の大学を養う源泉であり続けている」と言う。


(中略)


無力な集団に対する政治的抑圧という問題を無視するのではなく、スピヴァクは執拗に西洋の学問的モデルが「第三世界」女性を平然と無視できる特権に異議を申し立てる。そのとき重要なのが彼女の言う、「私たち自身の損失として私たちの特権を学びつつ解体する(アンラーン)」という姿勢である。この姿勢には、文学や歴史、メディアなどにおいて世界の支配的表象がいかに力の無い集団の生活や体験を忘却するよう促しているかを認識することが含まれている。




『ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク』 p.128-129

スピヴァクにとってこうしたクリステヴァの問いは、西洋の知や主体の権威に挑戦するための手段として他者の文化を喚起する西洋のポスト構造主義的知識人にありがちな傾向を象徴するものだ。スピヴァクは次のように書く。

西洋の、形而上学の、資本主義の他者にときどきは触れようとする関心は示すけれども、彼女たちが繰り返し持ち出す問いは執拗なまでに自己中心的なものだ。もし私たちが公式の歴史や哲学が言うところのものではないとしたら、いったい私たちとは何ものであり(なく)、どのような状況にあるのか(ないのか)、と言った具合に。

「誰が語っているのか?」と題された節で、クリステヴァは非西欧の文化を原始的で遅れていると表象する従来の人類学的言説から、自分のやりたいことを区別しようとして、西洋の人類学的視野のなかに非西欧の文化を置く視点をひっくり返そうとする。つまり、クリステヴァは人類学的研究の対象として村人たちに焦点を合わせるのではなく、村人たちがいかに彼女を外部者として捉えているかをまず想起しているのだ。
しかしスピヴァクによれば、クリステヴァはこのように一見「西洋の他者」に触れようとしているかに思えるけれども、彼女の関心は「執拗なまでに自己中心主義」である。


(中略)


クリステヴァが古代中国における女性の家長を持ち出すのは、ジークムント・フロイトジャック・ラカンのようなヨーロッパの精神分析的著作における女性の身体表象に対抗するためである。端的に言って、クリステヴァの『中国の女たち』での政治的関心は中国の貧農女性の現実の物理的現実ではなく、ヨーロッパ文化における女性の身体的存在の理論的抑圧にあるのだ。


(中略)


クリステヴァが中国女性の「性的解放」についてユートピア的な予言をしている点について、スピヴァクはこの「中国についての予言」を批判して、それが「植民地主義的善意の徴候」だと述べる。
実際スピヴァクは、クリステヴァの批評の焦点があくまで、「主体である探求者」のほうに置かれたままであるかぎり、彼女の持ち出す類型が中国女性の生活に現実に役立つかどうかは疑わしいと言う。




『ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク』 p.133-137