HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

聖性倒錯

『猿虎日記』(id:sarutoraさん)の「郵政問題より優生問題」を読んだ。
http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20050910#p1

要するに、「健康な国民」が暗い家で「痛み」に耐え、「障害者」の方が「豪勢な家」で「楽に」暮らしている、というイメージ操作です。

 そして、第二次大戦勃発直後、ナチスは、7万人もの障害者を「安楽死」させた悪名高い「T4」作戦を実行しました。T4の後にも障害者の積極的・消極的殺害は続き、犠牲者の総数は25万人とも言われます。

ここに書いてあるナチスの所業には、まったく「酷い」という言葉を発することさえも虚しくなる。

しかし……この「ナチスの所業」と「郵政改革を進める勢力」とを結びつける「イメージ操作」は、性急だと思う。というより、安易なナチズム・イメージの流用は、本当のナチスの犯罪を矮小化・陳腐化させるのではないか、という恐れを、どうしても拭い去れない。

そして「フェア」でないとも思う。それは、

 解散によって廃案になった障害者自立支援法ですが、政府が選挙後の国会でこの法案を再提出すると言っています。郵政改革を進める勢力は、障害者自立支援法という名の障害者自殺支援法に賛成の勢力でもあります。

障害者自立支援法」が「障害者自殺支援法」という側面を持つかもしれない、ということは否定しない。しかし、別のサイトの引用である以下の文章を読んで、どうしても一言書きたくなった。

ナチス時代に「遺伝病」という教育映画が作られた。

言うまでもない。「スローターハウス2005」で「問題化」したことである。つまりナチス時代から60年もたった現在において、「精神病」や「(性)倒錯」という<差別語>を平然と使用し、人びとに「差別教育」をしている出版社──すなわち岩波書店の所業についてである。

岩波書店は、2005年にもなって、何の留保も何のフォローもなしにラカンの差別的似非科学精神分析の本を出版している。

なぜ岩波書店が問題なのか。それは岩波が『広辞苑』を使って──つい最近まで、長きに渡って──同性愛は「異常」であると「触れ回って」いたからだ。

それは同性愛者に「社会的な死」を与えてきたことに他ならない。同性愛者の「自殺を支援」してきたことに他ならない──なぜ、思春期の同性愛の少年・少女の自殺が多いのか? 『広辞苑』に書かれている「指令語」こそ、「死の政治学」(タナト・ポリティックス)を象徴している。

その「イメージ操作/死の政治学」の反省も謝罪もなしに、差別行動を「繰り返す」こと。こんなことがなぜ許されるのか。

僕は「中傷言葉」は「単なる言葉」(Only Words)だとは看做さない。確実に人を傷つける、確実に人に「痛み」を与える「行為」だと考える。「侮蔑語」「差別語」「蔑称」によって、「人」は、「殺される」。

そして「問題」なのは、岩波におけるその「圧倒的な差別性」を知っていながら、そのことを批判してこなかった「左翼チーム」の所業だ。

ナチスが障害者に対して行った「虐殺」と「プロパガンダ」は、同性愛者に対しても行っていた。だったら岩波書店は、「戦後」も、ナチスの「プロパガンダ」を引き継いでいたのではないか──『広辞苑』という圧倒的な権力/装置で持って。

一人のドイツ兵も存在しないナチズムの誕生……それは全国津々浦々の図書館に「それ」を配備することだ。非人称の「指令語」が、人を監禁し、抑圧し、殺す。

そして、いま・ここでも、精神分析という「差別知」で持って、特定の人びとに対する「社会的な死」を「正当化」しているのではないか──なぜ「人間」に対して「倒錯」なんていう「酷い言葉」を吐けるんだ?

ホモセクシュアルであることの「選択」など存在しない。というのも、そのような体験が可能なのは、ジュネのように「ホモセクシュアルという名で呼ばれることの十分な理由」を発見する努力をする場合に限られるからだ。せいぜいホモセクシュアルの出口、ホモセクシュアルな欲望が生きて行けるためにとる、誤って解除された道があるだけだ。


サルトルもまた、このような歩みを次のように記している。「性対象倒錯は、出生前の選択の結果でもなければ、内分泌上の奇形のそれでもなく、コンプレックスによって決定された受動的成果ですらない。それは、子供が押さえつけられた瞬間に見つけ出す逃げ道なのだ」。その際、子供はこの救出用の酸素が実は毒入りなことをまだ知らない。そう、彼に与えられたのが性対象倒錯、彼が実質的に結び付けられている正常なものの裏側でしかないことを。


ジュネの物語は教訓的だ。彼がサルトルによって聖なるものと呼ばれたのも理由のないことではない。システムを超えて享楽することは、オイディプスの超越的介入のおかげで「悪への意志」に、サルトルがその瞬間を好意をもって描き出す実存的選択になる。ホモセクシュアルの不毛性を選択する形而上学的自由は、生産的リビドーの機能性の代わりとなる。進歩的知識人の目には、欲望が持つ耐えがたいものを「悪への意志」が聖化することで救ってくれると映るらしい。



ギィー・オッカンガム『ホモセクシュアルな欲望』(関修 訳、学陽書房)p.109-110

Homosexual Desire (Series Q)

Homosexual Desire (Series Q)