HODGE'S PARROT

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痛みを表現することとはどのようなことなのか、どうして痛みを表現することが困難なのか



学生オーケストラに所属していたときに、ある楽曲のスコア(総譜)から自分の楽器のパートの部分を写譜した。写譜することそれ自体に、しかも楽曲の一部分だけを写し取ることに、実際はそれほど意味はないのかもしれない。しかし、そう思いながらも、ブラームスシベリウスの作品のヴァイオリンのパートを五線紙に書き取っていくうちに、なにかしらその音楽に対するより深い理解や作曲家の思いさえも共感することができるようになった「気がした」──むしろ写譜しながら、その作業の最中に、「理解」や「共感」ということを、自分が意識しているということに、気がついたというべきか。


稲原美苗の「痛みの表現 身体化された主観性とコミュニケーション」*1の一部分を以下に引用したい。そこから、なにかしら、自分が感じていることを意識するために──意識していることを感じ取るために。

ところで私の夫は英国人であり、哲学を学んでいる同志でもある。彼も軽度の脳性まひを持っており(私と症状は異なる)、彼の左半身は歪んでいる。しかも、長年歪んだままなので身体に負担がかかり、彼の背中や足は痛みに占領されている。彼の身体の様子や顔の表情を見ると、「痛い」ということは漠然と分かるが、実際どのように痛いのか私には感じることができない。彼の痛みと私の痛みは異なっている。それゆえ、痛みの深さを伝えるにはやはり言語表現もなくてはならない。

ある日、夫婦で「痛み」について話し合った。私の首の痛みに日本語で「キリキリ」というオノマトペの形容詞を付けて、自分の痛みについて説明してみた。この形容詞を付けると、痛みの状態や様子を言い表し易くなる。私は彼にこのオノマトペの語句が私の痛みの状態や様子などを音声化して表現する語句だと説明した。すると夫が、この「キリキリ」という痛みの音を定義付けることはできるのかと疑問を投げかけてきた。しばらく考えて、この「キリキリ」という痛みをある音や状況で説明することができると話すと、夫は不思議そうな目で私を見つめて、「どのようにして君はその痛みを音声化することができるのか」と尋ねた。英国人の夫に日本語のオノマトペを理解するのは難しいことだったのかもしれない。夫は「そのような音は僕には無意味だ。キリキリがどんな音を表しているのか分からない」と言ってきた。
このときは本当に困ってしまった。私の中では「キリキリ」はただの名前を示した語句や記号ではない。日本人なら理解できると思うのだが、この「キリキリ」というオノマトペには、「弓を引いた時の張り詰めた音」のイメージがある。私の首はまさにあの状態だった。言い換えれば、これは「キリキリ」のような表現が特定のイメージ性を持つことであり、明確に断言できるような言語表現ではないが、「痛み」の特性を即時に説明する手段として有効な方法になる。日本人同士の会話の中で「キリキリ」というこの表現は、スカリーの言う痛みの「共有性」を高める表現であり*2、身体的な痛みに特別なイメージを与えることができ、表現の即時性もある。だが、日本語を解さない夫とこのキリキリとした痛みを共有することはできないのだろうか。

*1:現代思想』特集「痛むカラダ 当事者研究最前線」所収

現代思想2011年8月号 特集=痛むカラダ 当事者研究最前線

現代思想2011年8月号 特集=痛むカラダ 当事者研究最前線

*2:痛みを感じた経験の「共有性」(sharability)。エレイン・スカリー/Elaine Scarry は、言語上で痛みを共有(分かり合う)ことができないが、痛みをイメージして芸術作品を作ることから、それについて語り合える機会を持てる、痛みの経験や人々が痛みから解放されるようにと願いを込めたメッセージを伝える芸術作品を作ることで、痛みを少しづつ共有できる、と述べる。