『斜めから見る』の冒頭、スラヴォイ・ジジェクは様々な理論的モチーフを「斜めから見る」ことによって──つまり理論の〈実例〉をあげ「とっつきやすく」して説明することの意義を論じている。それというのも、ある「高尚な」理論の実例をあげ、それを「舞台にのせる」(上演する)ことによって、他の見方によっては気づかないような側面が見えてくるからだ、と。ある理論的立場を、〈一つの〉実存的・主体的態度として「舞台にのせる」ことによって、その立場を土台からゆるがし、それまで見えてこなかった矛盾が明らかになるからだ、と(それがヘーゲルの『精神現象学』の基本的戦略なのではないか、と)。
言表行為(enunciation)の主体的立場そのものが、「言表されたもの」(enunciated)を、つまり言表のポジティブな内容を、いかに土台から揺るがすものであるかを示すことではないだろうか、と。
ジジェクはそのような「斜めから見る」アプローチの有効性を説明するために、パルメニデスに目を向ける。パルメニデスは「存在」は唯一であり「全体」である、と主張した。ただしジジェクが「斜めから見る」のは、パルメニデスの理論そのものではない。パルメニデスの「理論的モチーフ」(テーゼ)を逆方向から証明した、パルメニデスの弟子のゼノンについてである。多数性や運動の存在を仮定するとナンセンスで矛盾した結果が起こることを示したゼノンである。
ゼノンの有名なパラドックス(逆理)については、山川偉也『古代ギリシアの思想』(講談社学術文庫)にまとまっているのでそれを参照しておこう。これらは、アリストテレスの『自然学』で紹介されている「運動否定の論証」である。
1.〔ニ分割〕 移動するものは、目的地に達するよりもまえに、その半分の点に達しなければならないから、運動しない。 (アリストテレスの注釈──ゼノンの議論は、有限な時間において無限なものどもを通過することができない、あるいは、無限なものどもと一つ一つ接触することができないという誤った仮定に立っている) |
2.〔アキレウス〕 走ることの最も遅いものですら、最も速いものによって追いつかれないであろう。なぜなら、追うものは、追いつくまえに、逃げるものが走り始めた点に達しなければならず、したがって、より遅いものがいくらかはつねに先んじていなければならないからである。 (アリストテレスの注釈──先んじるものは、先んじているときには追いつかれない。しかし、それにもかかわらず、もし有限な距離を(有限な時間に)通過することができさえすれば、先んじるものは追いつかれるのである。) |
3.〔飛矢静止〕 どんなものも、自身に等しい場所を占めているときにはつねに静止しており、移動するものは今においてつねに自身に等しい場所を占めているから、移動する矢は動かない。 (アリストテレスの注釈──どんな大きさも分割可能なものどもから成るのではないように、時間も、分割不可能な今から成るものではない。) |
4.〔競争場〕 競争場において一列の等しい物塊のかたわらを、反対方向に、一方は競争場の終点から、他方はその折り返し点から、等しい速度で運動する二列の等しい物魂に関するもの。この議論では、ゼノンは、半分の時間がその二倍の時間に等しいという結論になると思っている。 (アリストテレスの注釈──この議論の誤りは、等しい大きさのものが自分と等しい大きさのもののかたわらを等しい速さで移動する際には、後者が運動していても静止していても、要する時間は等しいと考えているところにある。) |
ジジェクによれば、ふつうの見方──アリストレスを含む伝統的な哲学史研究家の見方からすれば、ゼノンのパラドックスは、明白な矛盾、すなわちわれわれの基本的な「体験とは相容れないような何か」を証明するために作り上げた下らない理屈、まったく無意味で人為的な論理の遊びに見える。
そこでジジェクは、ジャン=クロード・ミルネールの論文「ゼノンのパラドックスの文学的技法」を参照する。ミルネールはゼノンのパラドックスを実際に「舞台にのせて」みた。そこでわかることは、ゼノンが運動の不可能性を証明するために作り上げた四つのパラドックスはどれも、もともとは「文学的な」常套句を下敷きにしていたということだ。ゼノンのパラドックスの「形式」は、悲劇的で「高尚な」主題に、それと呼応する卑俗で平凡なものを対置するという、ラブレーを想起させるような、典型的にカーニバル的・バーレスク的な処理の結果として生まれたのだ、と。
例えば、アキレウスと亀のパラドックス。これはホメロス『イリアス』を下敷きにしている。
さて俊足のアキレウスが、ヘクトルを休みなく激しく追い立てるさま、山の中で犬が小鹿を負うよう、その巣から狩り出し山間の低地を追ってゆく、潅木の茂みにかがんで身を潜めても、嗅ぎ出してはどこまでも追い、遂には捕らえる──そのようにヘクトルも俊足のペレウスの子から身を隠すことはできぬ。幾度も堅固な城壁の下へ飛び込もうと、ダルダノス門に向かって突進しようとする──さすれば城壁上の味方が飛道具を放って助けてくれるかも知れぬと思ったが、そのたびにアキレウスは先手を取り、脇へ回ってヘクトルを平野の方へ押しやり、自分はいつまでも町の側にぴたりと沿いながら走ってゆく。
それはあたかも夢の中で逃げる相手を追うことができぬよう、逃げる者も逃げようとしてそれができぬし、追う方も追うことができぬ、そのようにアキレウスは走って捕らえることができず、ヘクトルも逃げきることができぬ。
この『イリアス』の「高貴な」素材が、イソップの寓話と組み合わされる──それによってカーニバル的、バーレスク的な結果になる。ミルネールは、ゼノンのパラドックスが純粋な論理ゲームなどではなく、厳密な意味での文学ジャンルに属していること、すなわち、陳腐で滑稽なものを対置することによって「高尚な」モデルを転覆させるという、すでに確立していた文学的技法を用いて証明している、と。そのようにジジェクは述べた後で、この『イリアス』の「内容」を、「より高尚な?」ラカンの理論的モチーフの説明のために、再上演させる。
「夢の中では、追う者が逃げる相手にどうしても追いつけず、逃げる者も追う者から逃げきることができないが、それと同じように、アキレウスはヘクトルを捕まえることができず、ヘクトルもアキレウスから逃げきることができなかった。」
ここで描かれているのは、われわれの誰もが夢の中で経験するような、主体と対象の関係である。主体は対象よりも速く、しだいに対象に近づいていくのだが、それにもかかわらずどうしても対象を捕まえられず、休みなく対象に接近しているのに、対象はつねに一定の距離を保ち続ける、という夢のパラドックスである。
どうしても対象を捕まえることができないという、このパラドックスのいちばん重要な特徴をラカンは巧みに説明している。すなわち、重要なのはアキレウスがヘクトル(あるいは亀)に追いつく overtake ことができないということではない。なぜなら彼はヘクトルよりも速いのだから、簡単にヘクトルを追い越すことができる。
問題は、ヘクトルを捕まえる attain ことができないということである。ヘクトルはつねに、速すぎるか遅すぎるか、そのどちらかなのだ。
(中略)
これで、アキレウスと亀の場合のリビドー経済もはっきりとわかる。このパラドックスは、主体と、けっして捕まえられない主体の欲望の対象=原因との関係を、舞台にのせて実際に上演してみせたのだ。対象=原因はけっして捕まえることができない。われわれにできることは、せいぜいそのまわりをぐるぐる回ることだけだ。要するに、このゼノンのパラドックスのトポロジーは、欲望の対象はわれわれがどんなに捕まえようとしても捕まらないというパラドクシカルなトポロジーなのである。
スラヴォイ・ジジェク『斜めから見る』(鈴木晶 訳、青土社) p.20-21 *1
「飛矢静止」は『オッデュセイア』からである。ヘラクレスは何度も繰り返し矢を放つ動作をするが、それにも関わらず矢は動かない。「動きながら不動のままでいる」。夢の中では、われわれは必死に走っているのに、いつまでたっても同じ場所にいるように。
ミルネールが指摘するように──と、ジジェクが記すように、ヘラクレスが矢を放つ場面の決定的特徴はその場所にある。そこは冥界なのだ。
オデュッセウスはその冥界で、タンタロスやシシュポスをはじめ、同じことを無限に繰り返すよう宿命づけられて苦しんでいる者たちに出会う。タンタロスの拷問のリビドー経済は注目に値する。それは明らかにラカンが立てた欲求 need 、要求 demand 、欲望 desire という区別を例証している。つまり、われわれが欲求をみたすはずだった日常的な対象が、要求の弁証法に囚われたとたん、ある種の変質を遂げ、結果的に欲望を生み出すということである。われわれが誰かにある物を要求するとき、その物の「使用価値」(その物がわれわれの欲求をみたすために役立つという事実)はそのことによって、その「交換価値」の一表現形式となる。つまり、その物が、間主観的な関係のネットワークの一指標として機能する。
もし他人がわれわれの望みに応えてくれたとしたら、彼はそれによってわれわれにたいしてある一定の態度を表明したことになる。したがって、ある物にたいするわれわれの要求の最終的目標は、その物と結びついた欲求の満足ではなく、われわれにたいする他者の態度をたしかめることなのである。たとえば、母親が子どもにミルクをやるとき、ミルクは彼女の愛情の証となる。したがって哀れなタンタロスは自分の貪欲さ(「交換価値」を必死に追い求めること)の報いを受けているのだ。彼が手に入れるものはすべてその「使用価値」を失い、「交換価値」の純粋で無用な具現化に変わってしまうのだから。彼が食べ物に食らいついた瞬間、その食べ物は金に変わってしまう。
『斜めから見る』 p.21-22
次に「ニ分割」のパラドックス。われわれは絶対にある距離Xを行くことができない。なぜならそのためにはまず半分の距離を行かねばならず、半分行くためにはその前に四分の一行かなければならない……と無限に続く。終点は、ひとたびわれわれがそこに到達すると、ふたたび遠ざかる──シシュポスの神話のように。
ここに見られるのは、欲動 drive という精神分析の概念の本質そのもの、もっと正確にいえば、ラカンがたてた目標 aim と終点 goal との区別ではなかろうか。終点は最終的目的地 final destination だが、目標はわれわれがやろうとしていること、すなわち道 way そのものである。
ラカンが言わんとしたのは、欲動の真の目的はその終点(充分な満足)ではなく、その目標である。欲動の究極的目標は、たんに欲動それ自身が欲動として再生産されること、つまりその循環的な道に戻り、いつまでも終点に近づいたり遠ざかったりしつづけることである。享楽の真の源泉はこの閉回路の反復運動である。そこにシシュポスのパラドックスがある。彼はひとたび終点に達すると、自分の行為の真の目標は道そのもの、つまり上がったり下がったりすることだという事実を思い知らされるのだ。
『斜めから見る』 p.23
そして「競争場」のパラドックス。これまでのジジェクの説明の中で、このバラドックスの説明が──その「実例」が、つまり「舞台にのせ」られた例が──最もインパクトがある。「大きさも数も等しいいくつかの物体が反対方向に運動するとき、ある一定量の時間の半分がその時間の二倍と等しくなる、というパラドックスのリビドー経済はどこにあるのだろうか。これと似たような、ある物体を小さくして無くしてしまおうとすればするほど、その物体のリビドー的インパクトは増大するというパラドックスに、われわれはどこで出会うだろうか。
多くのユダヤ人が排斥され、虐殺され、その数が減れば減るほど、生き残ったユダヤ人はそれだけ危険な存在になった。まるで現実的にその数が減るのに反比例して脅威が増大するかのように。これもまた、主体と、主体の剰余享楽 surplus enjoyment を具体化している恐ろしい対象との関係を、典型的に示している。われわれがそれにたいして闘えば闘うほど、われわれにたいするそれの力は増大していくのだ。
『斜めから見る』p.23-24
ジジェクは、こうして、ゼノンのパラドックスがそっくりあてはまるような領域は実際に存在する、と結論づける。その領域とは、主体とその欲望の対象=原因との不可能な関係の領域、つまり、そのまわりを永遠にぐるぐる回っている欲動の領域である。ゼノンはパラドックスを用いて、運動とか物の複数存在は不可能であり、そういったものは存在しないと証明した──その主張は、パルメニデスによる〈一者〉、すなわち〈存在〉は動かないという主張の裏返し=擁護なのである、と。
そう述べたジジェクは、すかさず、ラカンの主張を擁護する。〈対象a〉を欠いているからこそ「哲学的思惟はみずからを位置づけることができ、〈対象a〉など存在しないのだと断言できるのだ」と。
ここまで書いてきて、ジジェクによるラカン擁護で(ゼノンがパルメニデスを擁護したように)このエントリーを終わらせたくないので、もう少し続けてみる。「斜めから見て」ゼノンのパラドックスを説明するのではなくて、「正面から見て」もゼノンの言わんとすることを確かめてみる。
さきほど参照した、山川偉也『古代ギリシアの思想』でゼノンの思考法が紹介されている。それによれば、ゼノン論法は、ピュタゴラス学派の数学者が用いていた「互除法」、およびユークリッドの『原論』に依拠しているのだろう、と。そういった伝統を継承したのだろう、と。
例えば下の図。図1おいて、図形CDFEは、同じかたちをした図形FEIHにおいて再現されている(『原論』第十巻定理二)。つまりこの図形は無限に繰り返される一種のグノーモン(日時計の「針」、曲尺)なのである。
図2においてアキレスが距離を通過するとき、亀もまた距離を通過する。ここで、のに対する比は正方形の一辺の対角線に対する比に等しいとしよう。そのときには『原論』第十巻定理二をモデルにして「アキレス」を次のように再構成することができる。
正方形が与えられたとして、をその一辺〔〕とし、をその対角線〔〕としよう。に〔〕をとり、のうえに垂線を立て、それがと交わった点をとする。そのとき、〔これをとしよう〕。したがって、〔これをとしよう〕。さて、とは、それぞれに新たな正方形の一辺〔〕と対角線〔〕をかたちづくる。このプロセスは、より小さい正方形についても繰り返され、この正方形に対してもまた、より小なる一辺と対角線が現れてくるであろう。このように続けることにより、わたしたちは、ますます小さくなっていく正方形を得ることができるだろう。この互除過程は、限りなく続けられて終わることがない。
「アキレス」の文脈にあってこれが意味するのは次のことである。アキレスが点に達するとき(アキレスが通過する距離)、亀は同じ時間に点に達する()。アキレスが点に達するとき(アキレスの通過する距離)、亀は点に達する()等々。こうして、アキレスと亀が次々に通過する距離は表のようになる。
距離の比 互除過程 第1段階 第2段階 第3段階 = 第4段階 …… …… …… …… 第n段階
つまり、がから差し引かれ、差が確認される。がから差し引かれ、が確認される。がから差し引かれ、差が確認される等々である。これは、二つの不等な距離、すなわちアキレスと亀によってそのつど通過される距離のあいだでの無限互除過程にほかならない。
「不当な距離」は、このように「正面から見た」整然とした数学的思考によって説明できる。なるほど。では「不当な議論」については……やはりここはプラトン=ソクラテスに登場してもらおう。プラトンの対話編『パルメニデス』において、キャラクター化されたゼノンが興味深いことを述べている。
……ソクラテスは、ゼノンの論文は、パルメニデスの詩と同じことを違った角度からいおうとするものであって、パルメニデスが「万物は一である」とするのに対し、ゼノンのほうは「万物は多ではない」と主張するものだと、なかなか穿った観察を述べる。これに対し、ゼノンは、その観察は当たらずともいえども遠からずだけれども、かならずしも自分の書物の本質を突いたものではないと言って、次のように述べる。
「実のところ、これらは、もしも《一である》という説が成り立つとすれば、その説は、多くのおかしなことを身にこうむって、自己を反駁する羽目になるのだとして、パルメニデスを笑いものにしようとする連中に対し、彼の説を擁護しようとするものなのだ。つまり、この書き物は、多を主張するひとびとに対抗して反論を行い、もしひとが十分に検討を加えるならば、彼らの《多である》という仮定のほうが、《一である》とする仮定よりもずっとおかしなことを許容しなければならないことになるだろうということに、これを明らかにして、彼らがパルメニデスに加えたと同じだけの、いやもっとずっと多くのことをしっぺ返してやろうとするものなのだ。」
山川偉也『古代ギリシアの思想』 p.185
ゼノンがねらったのは、……、世間一般の拍手喝采を期待した言論の上でのスタンドプレーではなかった。おもしろいことを待ちうけている老人や子供たちに恰好のパズルを提供することは、彼の意図にはなかったのである。むしろ彼は、おそらく、プラトンの言うように、パルメニデスを擁護しようとしたのである。
どのパルメニデスを? もちろん、パルメニデスが加えた批判に対して自分たちの議論の弱点を補強したうえで、いまひとたびの反撃を試みた論敵たちの攻撃目標としてのパルメニデスを、である。
山川偉也『古代ギリシアの思想』p.187-189
「正面から見た」後、もう一度、「斜めから見て」みたい事柄がある。冒頭に書いてように、ある「高尚な」理論の〈実例〉をあげ、それを「舞台にのせる」とどうなるか。ある理論的立場を、〈一つの〉実存的・主体的態度として「舞台にのせる」ことによって、その立場を土台からゆるがし、それまで見えてこなかった矛盾が明らかになるのではないか、と。主体が「言わんとしていること」と主体が「実際に言っていること」の区別。やはりジジェクがその例を紹介してくれている。あるラジオ番組で「上演」された出来事について、だ。
ベイルートでのサブラとシャチーラの虐殺の一週間後にレヴィナスが、ショーロモ・マルカとアラン・フィンケルクロートとともにラジオ放送に参加したときにやらかした有名な大失態を思い起こして欲しい。
マルカはレヴィナスに次のような明らかに「レヴィナス的」質問を行っている──エマニュエル・レヴィナス、あなたは『他者』の哲学者です。歴史は、政治は、まさに『他者』との出会いの場であり、またイスラエルにとって『他者』は何よりもまずパレスチナ人ではありませんか?」と。
この質問にたいしてレヴィナスは次のように答えたのだ。
他者についての私の定義はまったく異なっています。他者は必須の親族ではありませんが、そうなる可能性がある隣人です。またこの意味で、あなたが他者を受け容れれば、隣人も受け容れることになるのです。しかしあなたの隣人が他の隣人を攻撃する、あるいは彼を不当に扱えば、あなたには何ができるでしょう? とすれば、他性が別なる特徴を帯び、他性に敵を見出す可能性があるか、少なくとも誰が正しく誰が誤っているのか、誰が正義で誰が不正義なのかを知るという問題に直面することになります。誤っている人びとが存在するのです。
この発言に潜む問題は、潜在的にシオニスト的で反パレスチナ的なその態度にではなく、その反対に、高度な理論から世俗的な常識的反省への思いも掛けないシフトである。レヴィナスが言っている基本的問題は、原則的としては、他性への敬意─顧慮は無条件のものでありながら、具体的他者に直面すれば、それにもかかわらず、ひとは彼が友人か敵かを判断せねばならないということにすぎない。
要するに、実践政治では、他性への敬意─顧慮は厳密には何も意味していないのである。
スラヴォイ・ジジェク『身体なき器官』(長原豊 訳、河出書房新社)p.207-208 *3
[関連エントリー]
*1:
*2:
*3: