HODGE'S PARROT

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当事者の「第二のトラウマ」



スラヴォイ・ジジェク『幻想の感染』より引用しておきたい。

クロード・ランズマンの映画『ショア』は、ホロコーストのトラウマを、再現を超えたものだということをにおわせる(それはその痕跡、生き残った証人、遺跡を通じてのみ識別される)。
ところが、このホロコーストは再現できないことの理由は、それがあまりに「トラウマをもたらす」からではなく、むしろ、我々観察する主体が、今なおそこに関与しており、それを生み出した過程の一部であるということである(強制収容所近くの村出身のポーランド人農民が、今現在の時点でインタビューをされているのに、なおユダヤ人は「変」だと思っている──つまり、ホロコーストをもたらした当の論理を繰り返している──場面を思い出すだけでいい……)。


そういうわけで、トラウマをもたらす〈現実界〉は、まさに、我々が現実についての中立的客観的な見方をしているとは想定できなくするものであり、我々の現実についての明瞭な知覚をぼかすものである。そしてこの例も、ありえないものたる〈現実界〉に忠実であるという倫理的次元に思いいたらせてくれる。
大事なのは、単に「それについての真理全体を言う」ことではなく、何よりも、我々自身が、我々の主観的な発話の立場によって、つねにすでにそこに関与し、参加しているというところに直面することである……。


そのために、トラウマはつねにトラウマをもたらす事象「自体」と、その象徴的指示のトラウマとに分かれる*1。それはつまり、人がトラウマにとらわれると(強制収容所、拷問部屋……)、人を生かしておくのは証言しようという思いだということである──「自分はここで本当に起こったことを他の人々(〈他者〉)に語るために生き延びなければならない……」。


この最初のトラウマを、それを象徴的に統合することを通じて認識することが、必然的に失敗する(この苦痛は、他人とは共有しきれない)ときに、第二のトラウマが生じる。その場合それは、被害者には、自分が空しく生き延びたように見え、自分が生き延びたことが無意味に見える。
たとえばボスニア戦争のときにレイプにあった被害者は、象徴的認知の否認によってあらためてトラウマを受ける──つまり、そのつらい体験を語ることが、幻想だと言って否定されるか、自分も何か悪いことをしているしるしだと見られる(売春婦だから当然だ、あの人たちは特別で、汚れている……)場合である。
こうした被害者の自殺はたいていこの時点に行われるのであって、トラウマをもたらした元の体験の直後ではない。




ジジェク『幻想の感染』(松浦俊輔訳、青土社) p.317-318 *2

あるいは『仮想化しきれない残余』より。

冷笑的な態度はまた、今日復活しつつある民族的宗教的「根本主義」(ファンダメンタリズム)に対する鍵も与えてくれる。ラカンはすでに、冷笑的な人は、言葉を(その「象徴としての効能」を)信じておらず、享楽(ジュイサンス)の現実だけを信じているということを力説していた──そして〈民族的な物〉は今日の政治的〈享楽〉を体現したものとして最高のものではないか。
このことは、もはやいかなる社会的〈大義〉も信じることができない今日の冷笑的な「開明的」知識人がまっさきに「狂信的」な民族的根本主義の手におちてしまうという逆説を説明する。


冷笑的姿勢と(民族的あるいは宗教的)根本主義のつながりは、第一義的に今日の「劇場社会」において根本主義そのものはまた一つのメディアのショーでしかなく、それ自体は見せかけで権力の利害の冷笑的な仮面であるという事実とは関係なく、その逆である。冷笑的な距離そのものが、ある民族的(あるいは宗教的)な〈物〉へのそれとは認められていない執着に依存しているのだ──この執着が否認されればされるほど、その突然の噴出が暴力的になる……。


我々はつねに、我々のイデオロギーの空間の内部では、自分の〈民族〉への依存は反イデオロギーあるいは非イデオロギーの形をとるイデオロギーの形態(要するにイデオロギー)として最高のものであるということを頭に入れておくべきだろう。「政治やイデオロギーのようなささいな闘争はひとまずおこう。今大事なのは我々の民族の運命なのだ」というわけだ。





ジジェク『仮想化しきれない残余』(松浦俊輔訳、青土社) p.301-302 *3


[関連エントリー]

*1:「方や激変的な事件があって、症候をもたらし、証言を求める・その後、証言の証拠能力が否定され、説明を聞いていた者もいなければ、立ち会ったり答えたりする者もいない──単に事件に対してだけでなく、証言に対しても──ようになると、その事件は再び起こる」(Thomas Keenan, 'The AIDS Crisis Is Not Over’, in Trauma: Explorations in Memory, ed. Cathy Caruth, Baltimore, MID: Johns Hopkins University Press 1995, p.23 
→ Google Scholar: 'The AIDS Crisis Is Not Over’

*2:

幻想の感染

幻想の感染

*3:

仮想化しきれない残余

仮想化しきれない残余