齋藤純一の『公共性』を読んでいる。途中だが、興味を惹いたところがあったので、メモしておきたい。
著者によれば、最近の日本は、北欧や1970年代のイギリスのような「社会国家としての完成」に達する以前に、脱-社会国家の方向へ向かっているという。
社会国家を変容させているファクターは多岐にわたり、もとより国によっても事情は異なるが、その最大の要因は、「経済的なもの」と「社会的なもの」とが互いに背を向け始めたということである。
第一次石油危機(1973年)頃までは両者の間に幸福な関係が見られた。社会保障と経済成長とは互いを支え合い、強化し合う関係にあった。社会保障は健康な労働力を育成・保全し、保険金の蓄積は経済投資の財源として用いられる。翻って経済成長は社会保障をさらに充実する資源をもたらすという構図である。
しかし、低成長が常態化し、財政赤字が蓄積し、さらにグローバル化した経済環境のもとで不断の競争が強いられるようになると、社会保障は経済の良好なパフォーマンスにとって足枷、重荷として見られるようになる。
齋藤純一『公共性』(岩波書店) p.77
これは、80年代以降のアングロ・サクソン圏を中心に眼についた、社会的=国民的紐帯がその実質を失ってきた経緯と酷似している。労働市場の柔軟化/流動化──企業にとって「リストラ」しやすい条件が整備され、資本逃避に対抗するための「競争力のある」租税システムへの再編が至上命令であるかのように語られる。「公平や平等を重視する社会風土」なるものは攻撃に晒される。
重要なのは、こうして「経済的なもの」と「社会的なもの」があからさまに離反しはじめた結果、社会的=国民的連帯に深い亀裂が入ったということである。強力な梃入れをしないかぎり「一つの国民」という表象はもはや成立しがたくなり、むしろ「二つの」国民、二種類の市民というイメージが醸成されていく。
人びとは、経済的に生産的なセクターと非生産的で福祉に依存するセクターとの二つに分断され、両者の間には、「ルサンチマンの政治」──といっても弱者が強者にいだくルサンチマンではなく、「強者」(真の強者ではなく中産下層という「強者」)が弱者にいだくルサンチマンだが──がつねに伏在することになる。
市民の多くは社会的連帯のためのコストを負担することへの抵抗感を強め、社会国家はマジョリティの支持を失っていく。
p.77
「リスクを集合化」する社会国家のプログラムはもはや「合理的なもの」と見なされない。合理的なのは、「リスクを脱-集合化」し、それを個人で担うこと、自らの責任(自己責任)において引き受けることである。
人びとは、自らの能動的な活動によって、つまり労働市場において雇用される可能性をつねに維持しつづけることによって、自らの生命を保障しようとする。ニコラス・ローズが的確に指摘するように、”activity”と”security”とは緊密に結合するようになる。人びとは、自己自身の「起業家」(アントレプレナー)たること──自己という「人的資本」を緩みなく開発し、活用すること──を求められるわけである。
そのような自己統治(self-government)をなしうることが能動的な個人の条件となる。そうした能動的な個人が、生き延びることを確実なものとするために、どれほどのプレッシャーに身を曝しつづけなければならないかは問わないが。
p.78
- 作者: 齋藤純一
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