ベルギー象徴派の画家、フェルナン・クノップフ(Fernand Khnopff、1858-1921)の描く「シューマンを聴きながら」を見ると、この女性はいったいシューマンの何を聴いて、これほどまでに深い憂い(苦悩、悲しみ、痛み)を感じているのだろうと思う。
痛みはつねに内部を語る。しかしながら、あたかも痛みは手の届かないところにあり、感じえないというかのようである。身の回りの動物のように、てなづけて可愛がることができるのは苦しみだけだ。おそらく痛みはただ次のこと、つまり遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもないだろう。
この遠くのもの、シューマンはそれを「幻影音」と呼んでいた。ちょうど切断された身体の一部がなくなってしまったはずなのに現実の痛みの原因となる場合に「幻影肢」という表現が用いられるのに似ている。もはや存在しないはずのものがもたらす疼痛である。切断された部分は、苦しむ者から離れて遠くには行けないのだ。
音楽はこれと同じだ。内側に無限があり、核の部分に外側がある。
例えば、《幻想小曲集》Op.12 の第5曲「夜に」
Schumann In der Nacht Harold Bauer Rec. 1928
あるいは《交響的練習曲》Op.13
Emil Gilels plays Schumann Symphonic Etudes, Op13
《ウィーンの謝肉祭の道化》より「インテルメッツォ」
Richter plays Schumann - Faschingsschwank aus Wien
そして《子供の情景》Op.15 より「トロイメライ」
Horowitz - Schumann Traumerei
《シューマンを聴きながら》は、私たちの意に適い、クノップフの署名が付された、純粋に現代的な唯一の作品である。何故だろうか? それは、作品が外観を超えたこところに達し今日の魂の一翼を映し出しているからである。音楽が楽しみではなく、このように深く物思いに沈みながら聴かれるようになってから何年も経ていない。
芸術、私たちの芸術の効果は、哀しく重い理想に向かって漠とした魅力を喚起することにある。この作品は、まさにこの効果を視覚的に表現しているのだ。
エミール・ヴェラーレン「芸術家のシルエット:フェルナン・クノップフ」(小池寿子 訳、フェルナン・クノップフ展カタログより)