HODGE'S PARROT

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ハウス・オブ・スノッブ、マス・インテリの台頭




セザール・フランクの交響曲ニ短調は1889年に初演された。で、フランクの音楽を良く──本当に──「理解」するために、1889年という時期、ヨーロッパはどんな状況だったのだろう、といろいろ本を当たってみた。その一冊が、水谷三公『王室・貴族・大衆―ロイド・ジョージとハイ・ポリティックス』である。興味を惹く記述があった。

1889年26歳のロイド・ジョージは、地元カーナボンの自由党候補者に認知され、翌年四月の総選挙に望む。総投票数三千九百八票、うちロイド・ジョージの得票は千九百六十三票。対立候補との差がわずか十八票しかない、薄氷を踏む勝利だった。


相手の保守党候補は、一万二千エイカーの土地を所有する大地主のエリス-ナニイ。その父は、ロイド・ジョージが出た学校を支援し、地元では有数の慈善家として知られていた。ロイド・ジョージは、自分が世に出る基礎を与えてくれた恩人の息子を対立候補ちしたわけだが、恩義は恩義、政争は政争である。抽象理論より具体的な人物やものを相手に戦うのが得意なロイド・ジョージにとって、エリス-ナニイの登場は土地貴族体制を攻撃するのに、格好の標的になる。そして「丸太小屋で育った人間の夜明けがついに始まったことを、トーリーはいまだに悟らない」と高らかに宣言した。「リンカーンアメリカ」が海を越え、ウェールズの片田舎にも浸透してきたのである。




王室・貴族・大衆―ロイド・ジョージとハイ・ポリティックス (中公新書)』(中公新書) p.47-48


ロイド・ジョージは、政治家──とりわけ貴族的政治家を「スノッブ」と呼んではばからなかった。彼にとって下院は「俗物院」(ハウス・オブ・スノッブ)だった。しかし、そんな彼が、イギリス政界で──当時のイギリスの国力と影響力を考えれば、欧州のみならず世界で──大活躍をする。彼の取り巻きは、新興財界人や大衆紙をはじめとするジャーナリズムの有力者たちだった。それは西欧における、貴族支配から大衆社会への転換を物語る。
そんなロイド・ジョージを評してケインズは、「古代ケルトの悪夢にとりつかれた魔法の森の住民」であり、「究極目的の欠如、もっとも奥深いところにある無責任さ、われわれサクセン人の善悪の観念から超越するか逸脱した、狡猾さと無慈悲と権力欲とをないまぜにした存在……つまりは吸血鬼と霊媒とをいっしょにしたようなもの」と極めて辛辣に語ったそうだ。

これがすべてでないのは確かであろう。しかし自分すら信用しない類の商品でも、あるいはいまだ開発されてもいない商品すら、雄弁に売り込んで、なんら良心の呵責を感じないでする、大衆相手のセールスマンに似ていたことは、好意的な伝記を書いた著者すらまず認めるところだった。自己欺瞞は政治家の生理とはいえ、「衣食足りて自己宣伝を知る」とまで言える人は少ない。しかし晩年回顧録の執筆に際し、人間に食と住居が確保されれば、「次に問題になるのは、宣伝である」と語ったのは、ほかならぬロイド・ジョージである。





『王室・貴族・大衆』 p.48-49