女子学生は青年にしきりとアキレスと亀のことを説明していた。アキレスは亀を追うのだが、ゼノンによれば決して亀に追いつくことはできない。両者のあいだの空間は、無限の時間を要することになる。そのあいだに亀はどこかへ逃げてしまう。
青年はうなずいた。「なるほどね」
「でも、そうじゃないのよ」と女子学生は叫んだ。「空間を無限に分割できるということは単なる理論よ。現実に空間を横切る運動は、そんな理論とは関係ないのよ」
「よく分からないな、ヘイディ」
「わかるはずよ、あなたなら。フットボールをやっていると思ってごらんなさい。あなたは二十ヤード・ラインにいて、亀は三十ヤード・ラインにむかってあなたから逃げていくとするわね」
ロス・マクドナルドの最高傑作『さむけ』を読んだ。もちろん再読だ。
あまりにも凄絶で異様で信じ難い「トリック」が仕掛けられている『さむけ』であるが、真相を知って読むと、作者ロス・マクドナルドは「追いつけない犯人」について、読者に注意を促し、かなり堂々と手掛りを与えているのがわかる。
ゼノンの難題が繰り返されるのも、その一つだ。しかもリュウ・アーチャーにこんなセリフさえ言わせていて、驚いた。
「アーチャーは老婦人たちに決して追いつけないだろう」
p.306
そしてその「追いつけなさ」は、Aという人物とBという人物との「追いつけなさ」でもある。ロス・マクは、空間と時間の「ねじれ」を執拗に繰り返す。「あのトリック」は決して唐突に示されるものではないのだ。手掛りは、到るところに転がっている。
そういえば法月綸太郎は『隠喩としての探偵』でこんなことを書いていた。
たとえば『ウィチャリー家の女』の11章、アーチャーが「ミセス・ウィチャリー」と遭遇する場面を注意深く読むとよい。そこで作者は、老いと若さの矛盾する対位法を強調しながら、直喩とメタファーを効果的に使用することによって、真実をあからさまに記述している。したがってこの場面の描写は、文体上の修辞を字義通り(リテラル)に解しさえすれば、完全にフェアなのだ。つまりアーチャーの一人称は、直叙法(=語り手)と比喩(=探偵)が交錯する文体のレベルで、常に二重化されていることになる。
法月綸太郎『隠喩としての探偵』(『ミステリマガジン』1999年11月号より)p.49
それでは「字義通り」に「亀とアキレス」の問題を追ってみよう。
アーチャーが初めてミセス・ブラッドショーに会う場面の「ねじれ」。
婦人は煩わしそうに立ちあがると、乱れた白髪を帽子のなかに押しこみながら、わたしたちに近寄ってきた。汚れたテニス靴をはいた平凡な老婦人だが、ゆるい青色の上っ張りに包まれたその曖昧な肉体は、かつてそれが頑丈だった、あるいは美しかった時代の思い出にふけってでもいるように、重々しい威厳をただよわせていた。顔の建築は、肉と歳月の重みに潰え去っている。それでも、廃墟に住む思いがけない動物か鳥のように、黒い目は油断のない光を放っていた。
p.41
ロイ・ブラッドショーに対する「ねじれ」。
女は明らかにその男になみなみならぬ関心を示していたが、男のほうはそれほど相手に関心がないように見えた。どちらかといえば物静かで暗い美貌のもちぬしであり、女たちの母性本能をかきたてるタイプである。ウェーブのかかった茶色の髪は、こめかみのあたりが白くなっているけれども、まだ大学生の感じが残っている。大学を出て二十年経って、読みさしの本からふと目をあげると、中年男になっている自分自身に気がついた、といったところだろうか。
p.54
ヘレン・ハガティに対する「ねじれ」。
わたしはお世辞を受け流した。「以前のお住まいはどちらです」
「あちらこちら。ここと思えば、またあそこ。学校教師なんて遊牧民と同じよ。わたしには向いてないわ。わたしは恒久的に腰を落ち着けたいの。もう年ですからね」
「まだお若く見える」
「お上手ね。でももうお婆さんよ。男の人はなかなか老けないけど」
p.68
マッジ・ゲルハーディの「ねじれ」。
「たった二週間。わたしたち結婚する予定だったの。こんな所で、男っ気なしで暮らすのってすごく淋しいのよ」
「分かります」
わたしの声にあらわれた同情の響きに、女はいくらか生気をとりもどした。「男って、どうしてみんなすぐ出て行っちゃうんだろう。どんなに一生懸命、面倒見てやったって、長いこといてくれたためしがないわ。こんなことなら、最初の亭主と別れるんじゃなかった」女の目は遥か彼方を、遥か昔を眺めていた。「最初の亭主には女王様扱いされたけど、わたしがまだ若かったから馬鹿だったのね。結局別れちゃって」
p.82
ドリー・キンケイドに対する「ねじれ」。
この女はわたしたち二人と自分自身の心を相手に、一種のゲームをやっている、とわたしは思った。現実世界の断崖で危険な曲芸をやった末に、気が遠くなるような跳びこみを敢えてする気なのだ。
「自白? 化けものだってことを?」と、わたしは言った。
「これは効き目がなかった。女は当たり前のように答えた。「わたしは化けものよ」
困ったことに、その答えは、わたしの目の前で具体的なかたちをとるようだった。女の内部の混沌に似た圧迫感が、そのくちびるや顎のかたちを変えていくのである。ぱらりと乱れた髪の毛のあいだから、女の目はけだるそうにわたしを眺めている。これが、この日の午後、図書館の入口の階段で話しかけた女の子と同一人物だとは、ちょっと信じられないくらいである。
p.89
再びミセス・ブラッドショーの「ねじれ」。
「心配しなくていいのよ。だれもあなたを取って喰いやしませんよ」朝食代わりにもう息子をたべてしまったというように、最後のことばにはいやに力が入った。
(中略)
「誤解なさらないで下さいね。わたしは息子を深く愛していますし、誇りにしてもいるのよ。息子の美貌といい、学識といい、わたしは何もかも自慢のたねです。ハーバード大学は最優秀で卒業しましたし、そのあと最高の学位をとりましてね。今にきっと一流の大学か、名門校の学長になりますわ」
「野心家なんですね。それとも、野心家はあなたのほうですか」
「昔はね。昔は息子の代わりに野心を燃やしましたよ。そのうちロイにもだんだんと野心が芽生えてきて、わたしのほうはそうでもなくなりました。きりのない梯子を上るよりは、もっといいことが人生にはありますからね。たとえば、ロイが結婚するかもしれないという希望は、わたしはまだ捨てていません」老婦人はきらきら光る目でウィンクしてみせた。「ロイはあれで女好きなのよ」
p.183-184
ミセス・ホフマンのヘレン・ハガティとその前夫への「ねじれ」。
「ヘレンの前の御主人が、お父さんといっしょなのですか」
「ええ。今朝メイプルパークから出て来て、わたしを飛行場まで送ってくれました。バートはいい子ですよ。もう四十すぎだから、いい子なんて言うのは変ですけど、でも昔から年より若く見えるんです」
p.204
ジェイムズ・ゴッドウィンの「ねじれ」。
「これは馬鹿げた質問だとお思いかもしれませんが、あなたはコンスタンスを愛していましたか」
「こちらも馬鹿げたお答えをしましょう、アーチャーさん。もちろん、わたしは彼女を愛していました。有能な医者が自分の患者を愛するように愛していました。官能的といわんよりはむしろ母性的な愛です」医者は大きく拡げた両手を胸にあて、胸から出てくる声で言った。「わたしはコンスタンスに奉仕したかった。結末は失敗でしたが」
p.232
アール・ホフマンのルーク・デロニーに対する「ねじれ」。
「あんたはなんでそうデロニーに興味があるんだ。奴が死んだのは、もう二十二年前だよ。二十二年と三ヶ月になる。自分で自分を撃っちまったんだが、それはたぶん知っとるんだろうな」知的な光がちらと目に浮び、目の焦点はわたしの顔に定まった。
わたしはその知的な目にむかって言った。「ヘレンとデロニーとは、何か関係があったのですか」
「ない。ヘレンは奴には関心がなかった。ヘレンが惚れていたのは、エレベーター・ボーイのジョージだよ」
(中略)
ルーク・デロニーは、どちらかといえば女たらしだった」と、老人は楽しそうに言った。「しかし友達の娘に手を出したりはせんぞ。それに若い女が嫌いでね。細君も十ぐらい年上だったようだ。
p.246
ミセス・ブラッドショーのレティシャ・マクレディに対する「ねじれ」。
「どんな女なのですか、マクレディは?」
「ベルモントの家へ訪ねてきたとき一度逢っただけですけど、印象はたいへんよくなかったわね。失業中の女優だとか言っていたけれど、服といい、話しぶりといい、女優よりも古くからある職業のひとみたいでしたよ」老婦人の声はアイロニーにかすれた。「でも率直にいって、あの赤毛の女は美人の部類に入るでしょうね。毒々しい美人というのかしら。でも、ロイにはぜんぜん釣り合わなかった。女もそれを意識していましたよ。ロイはまだ二十そこそこの、世間知らずの青年でしたもの。あの女はどうみても海千山千だったけれど」
「年はいくつくらいでしたか」
「ロイよりずっと上。少なくとも三十だったでしょうね」
「とすると現在はもう五十近いですね」
「少なくともね」と、老婦人は言った。
「カリフォルニアにいらしてから逢ったことはありませんか」
たるんだ顔の肉を震わせて、老婦人は烈しくかぶりを振った。
「息子さんは逢っていたわけですね」
「でも、わたしには、一度もあの女の話はしませんでした。マクレディという女は存在しないかのように、わたしたちは暮らしてきたのです。ですから、今わたしが言ったことはあの子に黙っていて下さいね。わたしたち母子の信頼が崩れると困りますから」
p.327
こうして読者が作者ロス・マクの仕掛けたパズルの謎に追いついたとき、読者はアーチャーと同様、その異様な事態──仮定そのものが否定される事態──に「さむけ」を覚える。その崩壊感。これこそ「蜘蛛の濡れた足のようなものがわたしのうなじを走り、一瞬、髪の毛が逆立った」感じなのだ。
しかもロス・マク=ゼノンは、完全にフェアに読者に手掛りを与えていたことがわかる。その事実こそが、その事実を確認し承認しなければならないことが、髪の毛が逆立つほどの気味の悪い「さむけ」なのだ。
プラトンの伝承が正しいとするなら、ゼノンのこの議論は、パルメニデスが用いた論法、間接証明(背理法)のやり方にほかならないということになる。その形式は次のようなものである。
AならばBである。そして、Aならば非Bである、するとAならばBかつ非B。しかし、Bかつ非Bというのは不合理である。したがって、仮定Aそのものが不合理である。ゆえに仮定Aは成り立たない。
亀 失礼ですが、ゼノン先生、いまのお話は誤謬の原理を例証しているのではありませんか? いまうかがったのは数世紀後にゼノンの「アキレスのパラドクス」として知られることになるもので、すなわち(えへん!)アキレスはけっして亀には追いつかないということを証明している。しかし運動は本来的に不可能である(それゆえ運動は非在である)という証明は、あなたの「二分法のパラドクス」なのではありませんか?
ゼノン いやはや、これはお恥しい。むろん、仰せのとおりじゃよ。そのパラドクスは、AからBに達するにはまず半分いかねばならない──そしてその間隔をいくのにはその半分をいかねばならない。そしてその半分、その半分という具合に。しかしおわかりだろう、どちらのパラドクスも同じ趣向のものだ。率直のところ、わしは一大着想をひとつもっているにすぎん──それをさまざまに利用しているわけだ。
アキレス そんな論法は欠陥があるに決まっているね。どこが欠陥かはわからないけど、断じて正確なはずがない。
そして『さむけ』には、ヴェルレーヌの有名な詩──「秋の日のヴィオロンのためいきの……」──が引用される。なるほどヴェルレーヌの愛する者への「仕打ち」は、この物語と通低している。
ローラに
もしも光が闇で
闇が光なら、
月は黒い穴だろう、
夜のきらめきのなかの。
鳥のつばさが
錫のように白いなら、
こいびとよ、あなたは
罪よりも汚れているだろう。今朝、朝めしをたべながら、わたしは同じ詩をアーニーとフィリスに朗読したのだった。二十数年前の《ブリッジトン・ブレイザー》誌に、G・R・Bという署名入りで発表されていた詩である。
瞬間、わたしの経験は統一された。
p.379
- 作者: ロス・マクドナルド,小笠原豊樹
- 出版社/メーカー: 早川書房
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