HODGE'S PARROT

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「悪徳リフォーム業者」と「研究者」という「業者」

HODGE2005-07-10



クラウゼヴィッツヘーゲル戦争論って?


▼著者(=グリュックスマン)によれば、ナポレオンに体現される近代戦争の現実は、対極的な二つの思考をもたらした。第一は、「戦争という無秩序それ自体を支えている秩序を定式化」したクラウゼヴィッツの「戦争についての言説」であり、第二は、「戦争という無秩序から生まれる秩序を構想」するヘーゲルの「戦争の言説」ということになる。


▽「戦争についての言説」と「戦争の言説」か。なんだかよくわかんないな。
(中略)

▼グリュックスマンの理論も、ようするにそういうことさ。きみの言葉を借りていえば、ヘーゲルは無我夢中で遊びほうけて飽きない子供の無秩序に、つまり学校の秩序を対置する。クラウゼヴィッツは、学校の秩序が崩壊して出現する子供の無秩序の底に、学校の秩序よりも本物の秩序を発見した。と、まあ、グリュックスマンは主張したわけだ。
その本では、ヘーゲルの「戦争の言説」を徹底化するものとして核抑止戦略が、そしてクラウゼヴィッツの「戦争についての言説」を徹底化するものとして人民戦争戦略が検討されている。



笠井潔ユートピアの冒険』(毎日新聞社)p.105-106

最近「問題」になっている(ようやく「問題化」された、というべきか)「悪徳リフォーム業者」の「言説」を確認しておきたい。「悪徳リフォーム業者」は、お年寄りや認知症の人たちといった「弱者」を「狙い」、「調査・研究」という「名目」で他人の家に「侵入」、そこに住んでいるひとたちを「搾取」する卑劣な集団である。

そして重要なのは、今回摘発された「リフォーム業者の社員」というのは、その多くが「カウンセラー」のような「資格」を持っていないことだ。自称で十分なのだ。知ったかぶりで難解な専門用語を交えて「権威付ければ」、それで十分なのだ。

http://news.www.infoseek.co.jp/search/story.html?query=%83%8A%83t%83H%81%5B%83%80&q=26mainichiF0626m104&cat=2

 「狙うのは年金生活の夫婦」「『ご苦労さま』と言う人は契約を取りやすい」――。昨年まで約3年間、大手リフォーム会社の営業担当だった男性(38)が毎日新聞の取材に応じた。男性はシステムバスの販売を担当。近隣での工事を装い、欠陥がなくてもあるように指摘するなど消費者心理につけ込む手口や、マニュアル作成、演技指導を行うなど会社側の「社員教育」の実態などを赤裸々に語った。

http://news.www.infoseek.co.jp/search/story.html?query=%83%8A%83t%83H%81%5B%83%80&q=06kyodo2005070601003729&cat=38

高齢者を狙ったリフォーム詐欺事件で「サムニンイースト」(現・リブロ、東京)の元社員らが警視庁に逮捕されて7日で1週間。若手社員がゲーム感覚で強引な営業を繰り返していた実態が明らかとなった。

http://news.www.infoseek.co.jp/search/story.html?query=%83%8A%83t%83H%81%5B%83%80&q=09fuji57735&cat=7

経済産業省は今月、悪質な訪問販売業者で、処分を受けた事業者のリストを公表した。ところが、全65業者のうち3人は、なんと個人名。電話1本あれば、ひとりでも“起業”できる実態も明らかになった。

http://news.www.infoseek.co.jp/search/story.html?query=%83%8A%83t%83H%81%5B%83%80&q=24kyodo2005062401002289&cat=38

長崎市の75歳の女性が「今リフォームしないと住めなくなる」などと不安をあおられ、長崎県などの11のリフォーム業者と総額1800万円を超える契約を結ばされていたことが、24日分かった。

人の「弱味」につけこむ悪徳訪問販売業者には、くれぐれも気をつけたい。こういった連中は、他者を「金づる」としか思っていない。モノとしか思っていない。それで十分であると「教育/訓練」されているようだ。
そして彼らは「自分の営業戦略」に絶対の自信を持っている、無邪気にも、倣岸不遜にも。

▽で、グリュックスマンはどんなふうに主張しているの?
▼結論を要約すれば、第一に「マルクス主義は国家権力として実現されるや、収容所を生み出す」。第二に、「支配者は何を知っているか? 支配することは知ることであり、知ることは支配することである」
▽なんだか、よくわからないな。
▼いや、自称するとおりきみが現代思想ギャルなら、からならず思いあたるところがあるはずだよ。グリュックスマンのマルクス主義批判の背後には、まずフーコーがいるし、おそらくデリダさえもいるんだから。
マルクス主義が国家権力になるや、かならず収容所を生みだすことになるのは、マルクス主義が観念的な権力だからだ、つまり、排他的に真理を独占する正義の言説の体系だからだ。
▽ふむふむ。西洋形而上学の権力とか、「牧人=司祭型権力」とか……



笠井潔ユートピアの冒険』p125-126

わたしたちは、「研究者=業者」の「研究のため」に存在しているのでは、ない。お年寄りや認知症の人たちが、「悪徳リフォーム業者」のために存在しているのではないように。
順番を間違えるな。

周知のように、クラウゼヴィッツもまた、ヘーゲルと同じように、自己の戦争論を練り上げるにあたってナポレオン戦争をモデルにした。しかし、ヘーゲルが戦争(とそこにおける死)を人間の本質にし(「人間とは戦争する者である」)、そして、かの主語と述語の弁証法的転倒によって、逆に戦争を人間の主語=主体にしてしまった(「戦争が人間を規定する」)のとは異なり、クラウゼヴィッツはどこまでもこの転倒を拒んでいるかのように見える。つまり、ヘーゲルにあっては、フォイエルバッハによるヘーゲル批判の論理を借用すれば、人間の行う戦争がどこまでも自立的なものとされ、内的メカニズムが固定されたこの戦争が人間を作る、とされるのに対し、クラウゼヴィッツにあっては、戦争の本質を抽出する(=自立的な内的メカニズムを分析によって取り出す)ことも、主体が戦争を技術的に統制することを可能ならしめるため、つまり戦略計算に対して方程式を与えるためのものなのだ。クラウゼヴィッツにあって、戦争はどこまでも対象のままであり続ける。言い換えるなら、ヘーゲルにあっては戦争が語るのに対し、クラウゼヴィッツは戦争について語っている。戦争の本質はクラウゼヴィッツにとって技術的な参照基準にすぎない。



市田良彦『闘争の思考』(平凡社)p.258-259