HODGE'S PARROT

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悲しきリベラルたちの背信

●構造とは実在する「もの」ではなく、考え方のパターンのことだ。
たとえばある種族では、自分たちの先祖はフクロウだと決まっています。これが科学的に正しくないなどと言っても始まりません。事実かどうかではなく、そう考えられていることが大事なのです。彼らはフクロウを敬って、フクロウを襲うオオカミを嫌うでしょう。しかしまた別の種族では、ネズミを敬い、ネズミを食べるフクロウを嫌っています。この2つの種族では考える内容はまったく違いますが、考え方は同じパターンであることがわかります。このパターンこそが構造なのです。


小野功生=監修『図解雑学 構造主義』(ナツメ社)

先日、このエントリーを含む「ジェフ・ギャノン事件」における「同性愛の語られかた」への疑問を書いたが、その『暗いニュースリンク』の新たなエントリーを読んで、大いに失望した。

当該事件を追求する事は“ジェフ・ギャノンという同性愛者への個人攻撃である”という形に議論をスピンさせ、大量の保守派要員(ブロガーを含む)を動員して真相の隠蔽に邁進している。

史上空前のプロパガンダ:ニセのニュースで国民を欺くブッシュ政権 [暗いニュースリンク]

本当にこの書き手はそのように思っているのだろうか。そのようにしか「見えない」のだろうか。そのように「問題」を短絡させ、一蹴してしまっても「構わない」と考えているのだろうか。上記引用のように書くことによって、これもまた、ある種の「議論のスピン/プロパガンダ」になっていることが、理解できないのだろうか。

ジェフ・ギャノン事件における「同性愛の語られかた」への異議申し立て=主張(クレイム)が、十把一絡げに「事件の隠蔽」だと看做され、無視される……。なぜ同性愛者の、同性愛に対する「語られかた」への<クレイム>に耳を傾けることができないのだろう。

たしかにアン・コールターのような人物が同性愛者に対して真摯に弁護をするとは思えない。しかし、だからといって、ジェフ・ギャノン事件における「同性愛の語られかた」を疑問視している「声」がすべて「真相を隠蔽するためのスピン」だとなぜ断定できるのか。なぜ平然と断定してしまうのか。断定しても「構わない」と思うのか。

だいたい、「同性愛をスキャンダラスに語った」からこそ、「同性愛者への個人攻撃だ」という「反論」を与える余地が生じたのではないのか。

性的指向民主党支持者なら「性癖」ではなく、ライフスタイルも考慮した「性的指向」という<言葉>を使用すべきだろう)が問題ではないのならば、なぜこれほど「ゲイ」「同性愛」という言葉を書き立てるのか。なぜマクレラン報道官やアームストロング・ウイリアムズに「言及」する必要があるのだろうか。

何を仄めかしているんだ? どんな「隠喩」を引き出しているんだ?

ブッシュ大統領やライス国務長官の「性的指向」=「異性愛」が、いつ、話題になった? クリントン大統領やモニカ・ルインスキーの「異性愛者であるという事実」が、どれほど問題になった?(問題になったのは「<異性愛>不倫」で、「異性愛そのもの」では決してない)
なぜ、「同性愛そのもの」が、こういったネガティヴな場面でクローズアップされるのか。
本当に、同性愛を<利用>して、スクープをスキャンダラスに粉飾し、敵対者(たち)の「<悪>を印象付ける」操作はなかったのか?

それが病的な拒否反応を克服する一つの方法でもある。誰かを攻撃し、殺戮しているとき、これは本当のところ自己防衛なのだ、相手は強力な侵略者であり、人間ならぬ怪物なのだと思わせるのだ。


ノーム・チョムスキー『メディア・コントロール』(鈴木主税訳、集英社新書

ジェフ・ギャノン事件が「深刻な問題」であるならば、なぜ当該人物の「裸体」をスキャンダラスに掲載し、「興味のない方には気分を害する内容なのでクリックしないでください」という「揶揄」を挿入する必要があるのか。それは、書き手が、同性愛を「揶揄の対象」と看做しているからではないのか。同性愛者をさらし者にして「揶揄」したいという<誘惑>に抗しきれなかったからではないのか。
「同性愛差別」という「プロパガンダ」は、いったいどういうふうに、どういう状況で、生成されるのだろうか。そして、「それに対する異議申し立て」は、いったいどういうふうに踏み潰されるのだろうか。さんざん同性愛について揶揄をした後、「性癖が問題ではない」と軽くあしらうことが<誠実>な態度なのだろうか。

これはエイズが隠喩として途方もない使われ方をすることがないということではなくて、癌とは別の隠喩としての力を持っているというだけの話である。アラン・タネールの映画『幻の女』のディレクターが、「映画は癌みたいなものだね」と述懐したあとで、「いや、伝染するから、エイズに近いか」としたのなど、エイズを軽く扱おうとしているのだろうが、この比較自体がぶざまなくらい意識的であるように思える。


スーザン・ソンタグエイズとその隠喩』(富山太佳夫訳、みすず書房

プロパガンダ」は、「プロパガンダ性」を「意識」して行使したときのみ、そうであるものなのか。意識していなくても十分に機能するのではないのだろうか。結果として「プロパガンダ」として機能している場合もあるのではないか。
問題は、ある人がリベラルという「政治的ポジション」にいることを、いったい、誰が決めるのかだ。
「保守派の政策」を批判すれば、すべて、自動的に、リベラルになるのか。
「保守派と呼ばれる人物」を愚弄すれば、すべて、自動的に、リベラルになるのか。
「保守派」と対峙した「ポジション」が、すべて、自動的に、リベラルになるのか。

ラベル付けや、一般化や、文化的な断定は、結局のところ何と無力なものだろう。あるレベルにおいては、たとえば原始的な情念と高度なノウハウが一点に集束することにより、強固に守られた境界線の虚構性があばき立てられるということも起こってくるのだ。そのような境界線には、「西洋」と「イスラーム」のあいだに引かれたものだけでなく、過去と現在、「われわれ」と「彼ら」のあいだの境界も含まれるのである。「アイデンティティ」と「ナショナリティ」という、果てしのない意見の相違と論争のまとになってきた概念のあいだの線引きについては、言うまでもなかろう。


エドワード・サイード『戦争とプロパガンダ』(中野真紀子・早尾貴紀訳、みすず書房

ジェフ・ギャノンがゲイの売春夫ではなくて、異性愛の弁護士「として」ホワイトハウスに顧客を持っていたらどうなのか。異性愛の料理人「として」顧客を持っていたらどうなのか。
この『暗いニュースリンク』のエントリーから、「ホワイトハウスは同性愛という<悪徳(アンモラル、反倫理)>に汚染されていますよ!」というメッセージ=プロパガンダを読み取り、それにクレイムする僕は「議論をスピン」させる「隠蔽工作員」なのか。そういう「レッテル貼り」が「正義」なのか。それが「フェア」なのか?

Fair is foul, and foul is fair.
Hover through the fog and filthy air.


William Shakespeare 『Macbeth』

構造というのは「建物の構造」などと言うように、本来は仕組みや骨組みのことですが、レヴィ=ストロースが言っているのは、ひとつのものだけを見てわかる仕組みのことではありません。上の例(ネズミとフクロウとオオカミの例)のように、複数のものを見たときに共通してあらわれる仕組みのパターンのことなのです。上の例で言うと、最初の種族にとってのフクロウを後の種族のネズミに置き換え、最初の種族のオオカミを後の種族のフクロウに置き換えたとき、初めて共通するパターンを見つけることができます。このような置き換えを変換といいます。構造は、変換という操作をしなければあらわれてこないのです。


小野功生=監修『図解雑学 構造主義