HODGE'S PARROT

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なるほど、そうくるか。

レオ・ベルサーニの『ホモセクシュアルとは』(船倉正憲訳、青土社)。精神分析系のゲイ・スタディーズは、やはりフーコー派のジュディス・バトラーやデイヴィッド・ハルプリンを強烈に批判している。
まず、

ゲイからゲイの性質を奪い取ればホモフォービア(同性愛恐怖者)たちの圧力が強まるだけである。

という前提から、

ここではわたしは食事の嗜好に関する断言(*注 ハルプリンの主張する食事の嗜好とセックスの嗜好の相同性)に興味を引かれ、ジュディス・バトラーが「レズビアンに必然的に共通する要素」はホモフォービアたちがいかに反女性の動きをするかを知っていることであると論じたことには驚かされるが、これに負けず劣らずハルプリンの断言も驚くべきものに思えるだろう。
この種の主張は愚かしいから貴重である。つまり、浸透力がより強い文化が、まずわたしたちに自分が誰であるかを言わせ、次にわたしたちにこの問いの言葉を使って答えさせる、という攻撃に加える予想もしなかった果敢な反撃として貴重なのである。ところが困ったことに、彼らはセックスの嗜好から抽出された本質主義アイデンティティを拒否してホモフォービアへの抵抗を構えるが、そこには抵抗を実行する者が消去されているのである。つまり、ホモフォービアの主体に対立するホモセクシュアルの主体がもはや存在しない。ゲイのアイデンティティの否定がゲイの存在が社会慣習に示す望ましい反逆──抑圧の構造と戦う習性──を支えるのではなく、むしろ特殊なセクシュアリティ、精神の可変性、そしてラディカルになりうる政策との結節部分の探求がその反逆を支えるのである。

フェミニズムによるバトラー批判同様、ゲイ・スタディーズからのバトラーやハルプリン(そして、つまりフーコー)批判もあるというわけだ。ジジェクラカン派だけではなくて。

ホモセクシュアルとは (りぶらりあ選書)

ホモセクシュアルとは (りぶらりあ選書)