HODGE'S PARROT

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「ピアニスト」アシュケナージはゴミか?

リスト/超絶技巧練習曲S.139

リスト/超絶技巧練習曲S.139

そういえば、かつて浅田彰はこんなことを言っていた。

バルトは声について「きめ」を問うたようにピアノについて「打つこと」を問う。ルービンシュタインは打つことができない。許し難く凡庸な優等生アシュケナージはもちろん、時にすばらしく重いピアニシモを聴かせる老練なブレンデル、そしておそらくポリーニさえ、打つことができないと言うべきだろう。彼らは音楽の制度に余りにも見事に適合しているため、分節構造のしかるべき位置に音を置いていくことしかできないのだ。


浅田彰シューマンを弾くバルト」(『ヘルメスの音楽』より、ちくま学芸文庫

しかしそれがいったい何だというんだろう。「打つことができる/打つことができない」、という二分法的評価基準=言説は、デリダ的な脱構築フーコー的な権力分析によって<解体>しなければならない……しかし、圧倒的に面倒なので、今日はやらない。

言うまでもなく、音楽は個々人の趣味であるし、ある演奏家をどう判断しようと勝手だ。しかしアシュケナージを好んで聴くからといって「deaf」なんて言われた日には……。

ウラディミール・アシュケナージは録音が多い。よって、出来の悪い録音も多い。(例えばショパンのピアノ協奏曲第一番や80年代以降のシューマン他多数)。しかも指揮は概して面白くない(悪くないと思うのはシベリウスショスタコーヴィチのいくつか)。

しかし、だからといって、ピアニスト・アシュケナージを全否定できない。むろん、「何でも屋」というレパートリーの広さ=節操のなさでもって、全否定することもできない。

また、僕はピアノとヴァイオリンを習った経験があり、学生時代には大学オーケストラに所属していたからといって──そのことによって──アシュケナージを「肯定」する「資格」もさらさらない、と言っておこう。

なので、以下は僕のまったくの個人的な「趣味的価値判断」でもって、My フェイバリット・「ピアニスト」・アシュケナージ演奏を選んでみたい。

これは素晴らしい。『鬼火』の冴えた技巧、『狩り』のダイナミズム、そしてなんといっても『10番』だ。これを聴くとベルマンは単調に思えるし、ボレットは技術的にダメだ。アラウは結構良いのだが、アシュケナージに比べるとちょっとキレがないかな、「マゼッパ」は凄い。キーシンもまだまだかな。

ラフマニノフよりもこっちのほうがロマンティックな気がする。ラフマニノフのピアノ協奏曲2番→3番とてきて、4番で「うーん……」と沈思した人には、この曲はお勧めだ。

5番、『黒ミサ』もいいけど7番が凄いな。3番はグレン・グールドやソフロニフスキーの方が好きだ。

アシュケナージショパン・ベスト1演奏はこの小品だね。

  • バッハ ピアノ協奏曲

これを聴いたらチェンバロじゃ物足りない。

この若い頃の録音がいい。アシュケナージは再録音よりも旧録のほうが良いものが多いと思う。

やっぱりラフマニノフも。ピアノ協奏曲や前奏曲、「コレッリ主題による変奏曲」もいいけど、「音の絵」の第1番の豪快さが好きだ。こんな風に弾きたいぜ。