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男子トイレの法 リー・エーデルマンのメンズ・ルーム


公衆の男子トイレの構造化=建築と、その利用者=保護者(パトロン)の自己反省的=反射的(セルフ・リフレクティヴ)な視線。直立不動(ストレート)で並び立っている他の誰かの宝石=金玉(ファミリー・ジュエル)を監視する/監視されるという二重の見解=視野(ヴィジョン)──それが画面=目隠し(スクリーン)として理解される両義的=輪郭が二重(ダブル・エッジド)である不気味なもの(uncanny)、すなわちメンズ・ルームで用(ビジネス)を足すことの露出=黙示(レベレーション)。

公衆用の男子トイレ(メンズ・ルーム)は、建築として言うなら、滅多に眺めのいい部屋(ルーム)であることはないし、そもそも外の眺めと言える代物が少なくとも見える部屋では滅多にない。(ウォーター・クローゼット=WCであるうえ、大声で言うのはタブーな肉体に関わる事柄を行う場でもあるから) 男子トイレはクローゼット=内密の小室とほとんど同類であるのだが、クローゼットと同様、男子トイレには窓が欠けていがちなのである。それに、構造設計の一部として確かに窓なるものが形を成している場合も、窓ガラスは、透明であるより半透明であることのほうが多く、空間の外と内とでどんな視覚的交渉も図れないことをあらかじめ謳ったものになっている。窓のかわりに鏡を使いつつ、視野に奥行きを求める目の欲望に対しては視線をそれ自らへと送りかえすことで満足を与えながら、男子トイレは、自己反省的=反射的(セルフ・リフレクティヴ)といみじくも呼びうる空間の画定を通じて──この空間は「公」の一部をなすものへ接近しうるものであるとはいえ──、内部性=内面性(インテリオリティ)という観念、そして封じ込めという原理へと向けられた、合図の身振りを発しているのだ。こうしたことは、建築から発せられる命令の裡に暗黙に示されている。そして、その命令はといえば、モニュメント化を行う建築そのもののイメージの中で(イデオロギーの主体として主体を形成し、そのむね主体に通告するという形で)、主体を形づくるのであり、かくして男子トイレは、構造的な──というのもそれは構造化=建築を行うのだから──同一性の分節を通して、主体を空間に収める容器として型どる=モデル化することになるのである。

(中略)

男子トイレにおける法は、男性のムスコ(原文では”dicks” 引用者注)を小便器では公に注視しうるものとして定めてはいるが、それはまさしくそれと相関する次のような命令を認めるためである。すなわち、そうした注視は決して起きてはならない……。身振りのうえでは強がって見せる態度も、文化がそうするよう強要した場合は「自然に」なってしまうのだが、しかしそうした強がりは、同じように用を足す他の男たちの前でムスコを手でつかむ際にも暗に現れているのであって、じつはそれは有力と思われる二つの想定のうち、その一方の側を当てこんだものなのである。つまりは、その手の身体の表出は起こりうるだろう。というのも、それを認める空間は、多かれ少なかれ、明らかにゲイの男性に捧げられているのだから……。しかし、表出するということそれ自体が、ともすればそうした空間がゲイの男性あるいはゲイの男性の欲望が現れる場になりかねないと認めることを軽蔑の念を込めて(ことによると厄払いを狙って)拒否する宣言になっているのだとも想定できよう。こうした二つの想定の間を揺れつつ、男子トイレの論理は、警戒心に満ちた無頓着さなるものを、規範として制定=実演することを強制しており、それこそは、視覚的な関係に対して男子トイレが及ぼす規律上(ディシプリナリー)の圧力に、対応したものとなっているのである。小便器での亀頭の開けっぴろげな表出は、不測の欲望が許容される可能性を否認するものであるけれども、いかに横目であるとはいえ、眼差しのベクトルはやはり用心したままなのであって、そのように表出された亀頭に対して些かなりとも興味を露わにする一瞥を、依然監視しようとしているのである。じっさい、次の問いに暗に込められた全開の攻撃性を、どこでもっとはっきりと認められると言うのか?

「おまえ、『俺のこと』を見ているだろう?」



リー・エードルマン『メンズ・ルーム』*1(瀧本雅志 訳、『10+1』 14号 現代建築批評の方法 身体/ジェンダー/建築)

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*1:Lee Edelman, Men’s Room

Stud: Architectures of Masculinity

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