HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

レオ・ベルサーニの直腸とキャサリン・マッキノンのポルノグラフィ


レオ・ベルサーニが『直腸は墓場か?』で重要視するキャサリン・マッキノンとアンドレア・ドウォーキンらによるセクシュアリティに対する視点

最近の研究が強調してきたところでは、ジョン・ボズウェルがいうように「美の基準がしばしば男性の原型にもとづく」社会(彼は古代ギリシアイスラムの世界を引いている)においてさえ、そしてより驚くべきことに男性同士のあいだでの性的関係を不自然であるとも罪悪であるともみなさない文化においてさえ、境界線は「受動的な」アナル・セックスに引かれている。中世のイスラム世界では、同性愛的性愛を強調しているにも関わらず、「『挿入される者』の立場は奇怪なものであるかもしくは病理的なものとすらみなされていた」。(……)

古代ギリシアの思想においては、自己統御と欲求への無力な埋没とが倫理的に対立する極を形成していた。このことから、能動性と受動性という観点からの性行動の構造化が帰結し、さらにそれと関連して、セックスにおけるいわゆる受動的役割の否定が導かれたのである。フーコーは述べている。アテナイの人々が受け入れがたいとみなしていたものは青年期を他の男性たちの「快楽の対象」として過ごしていた指導者の権威というものであった。つまり、性的に受動的であるということと市民の権威というものは、法的かつ道徳的に両立不可能であるのだ。唯一「名誉ある」性的活動とは「能動的であること、支配すること、挿入すること、それによって自らの権威を行使することにあるのだ」。

いいかえるならば、古代のアテナイにおける「受動的な」アナル・セックスへの道徳的なタブーは、なによりもまず一種の社会権力の衛生学として定式化される。挿入されるということは権力を放棄するということなのだ。今日、これとほとんど同一の議論が──まったく異なるパースペクティヴからであることは確かだが──特定のフェミニストたちによってなされていることは興味深い。数年前の Salmagundi に公表されたインタヴューで、フーコーは次のように語っている。「男たちは、女性が自分たち男を主人であると認める場合にのみ快楽を経験できると考えています」。この発言が、キャサリン・マッキノンやアンドレア・ドウォーキンによるものであると考えられても不思議ではない。(……)

彼女たちが関心を示していることは、上になることへの男たちの固執が意味しかつ構成している権力の配分を変革することである。彼女たちへの反発は多大なものがあるが、しかし思うに彼女らは極めて重要なポイントをついているし、それは──予期せずといったほうがいいだろうが──エイズが解き放った、同性愛嫌悪に凝り固まった怒りというものを理解するために役に立ってくれるだろう。

たとえばマッキノンは、レイプとポルノグラフィにおける、暴力とセックスを区別するリベラルな立場に抗して、説得力豊かに論じている。彼女によればこうした区分は、レイピストにとっては暴力それ自体がセックスである、という明白な事実であるべきものを否定するばかりか、ポルノグラフィとは、単にセックスにのみかかわるものであるという印象を与えてしまい、それによってポルノグラフィを弁護することに手を貸しているのである。通常は非暴力的とされているポルノグラフィ(たとえば、あからさまなサド・マゾヒズムやレイプの場面のないポルノ映画)を記述するのに、なぜマッキノンやドウォーキンが、暴力という言葉を用いているかというと、彼女たちはポルノグラフィの表象する性行為に、刻み込まれていると見る権力関係を、彼女たちが暴力的と規定するからである。マッキノンはいう。ポルノグラフィは「ヒエラルキーを性愛化する」。つまりポルノグラフィは「不平等をセックスへと加工し、不平等を楽しげなものにする。そしてまた不平等をジェンダーへと加工し、不平等を自然なものとする」。マッキノンは「女性のセクシュアリティを自己破滅への衝動とみなす男性優位主義的規定」について語っているが、これは(もちろんレトリックのエスカレーションは別として)フーコーの主張からそんなに遠いわけではない。まさに、ポルノグラフィは、「支配と従属の性愛化と男性/女性の社会的構成とを重ね合わせることによって、男性優位のセクシュアリティを制度化する」のである。

たとえそのようなポルノグラフィの記述が正鵠を得たものであったとしても、彼女らはその重要性を過大視しすぎているのではないか、と論じられてきた。すなわち、ポルノグラフィは、ある社会的現実の構成において主要な役割を果たしている、とマッキノンやドウォーキンはみなしているが、それは実際には、その社会的現実の単なる周縁的な反映にすぎないのではないか、というわけである。ある意味で──とりわけハードコア・ポルノグラフィの固定的な観客の規模というものを考えるなら──この主張は正しい。しかし、この反対意見もまた責任回避である。というのもポルノグラフィが不平等の暴力それ自体を性愛化し、それによって賞賛しているのだという点にまで同意するのであれば、合法的ポルノグラフィは合法化された暴力であるということになろうからである。

それだけではない。マッキノンとドウォーキンが実のところ主張しているのは、ポルノグラフィのリアリズムである。つまり、ポルノグラフィが差別の暴力の性愛化に構成的に作用しているのか(単なる反映ではなく)どうかについて、われわれがどのような意見をもとうが、ポルノグラフィはこの差別のもっとも正確な描写でありもっとも効力のある促進剤であることは間違いないのである。風邪薬やふすま入りコーン・フレークの売り上げ促進の一環として、女性が自分の恋人たちの気管支や大腸の正常な機能のための奴隷として描かれている類の、うんざりするようなTVコマーシャルは数え切れないが、そのようなポルノグラフィよりも広く浸透したジェンダー間差別の表現に比べ、ポルノグラフィを社会的に重要性が低いとして無視するわけにはいかない。というのも、ポルノグラフィのみが、なぜふすま入りコーン・フレークのコマーシャルが有効なのかを説明するのであるから。要するに、女性の奴隷じみた姿はエロティックでぞくぞくさせてくれるというわけである。

結局のところ、マッキノンとドウォーキンによるポルノグラフィ批判の究極的論理は、再び発明され直されるまで、セックスはそれ自体が罪悪である、ということになろう。いかにそう響こうと、わたしは決して彼女らの見解のパロディを拵えているつもりはない。というのも、彼女らのもっともラディカルな主張とは、本来は無害であるはずの性的関係にポルノグラフィが有害な影響を及ぼしているということではなく、いわゆるノーマルなセクシュアリティ自体が実はポルノグラフィ的であるというものであるから。マッキノンはいう。「われわれの文化のように、女性への暴力が性愛化されている場合、セックスのレヴェルで、ペニスによってやられるかこぶしによってやられるかのあいだに、重要な区別があるとはいいがたい。とりわけやる側が男である場合にはそうである」。ドウォーキンは、この立場を論理的な極点まで──つまり性交 Intercourse それ自体の否認へと突き詰める。彼女が論じているように、もし「性交それ自体と女性の劣位とのあいだに関係が存在し」、なおかつ、性交それ自体が「改良の余地なし」であるとすれば、もはや挿入などあってはならない。ドウォーキンは宣言する。「男の権力──男根の権力──の世界では、性交は、権力行使、力の発揚、所有が合体した本質的な性的経験である。死すべき身 の、普通の男の性交がである」。



レオ・ベルサーニ『直腸は墓場か?』*1酒井隆史 訳、『批評空間』?-8,1996)

*1:Leo Bersani, Is the Rectum a Grave?