HODGE'S PARROT

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「フランス人よ、共和主義者たらんとせばいま一息だ!」



風邪は治ったのだけど、今日はなんだか天候が悪かったので、やはり部屋に閉じ込もってスラヴォイ・ジジェクでも読もうと本棚から取り出してみた。


で、『快楽の転移』の中で「宮廷恋愛」について論じられている部分を読んだ。この寛容な時代、オフィスの薄暗い一角で「そそくさと」セックスをやってのけられるような今日に、なぜ宮廷恋愛(ラムール・クルトウ)などをとりあげるのか──と、冒頭でジジェクは挑発的に記す……なぜなら歴史は遡及的に解釈すべきなのだ、つまり「人間を解剖することが猿の解剖には重要なのだ」。
そして(ラカンに沿って)自論を展開する。「宮廷恋愛を考えるにあたってまず避けるべき落とし穴は、〈貴婦人〉を崇高な対象とする誤った見方である。〈貴婦人〉は〈他者〉であり、われわれ人間と「同類」ではない──共感関係が不可能な者=〈もの〉なのである。

宮廷恋愛に関する次なる重要な特徴は、それがまったくもって礼儀作法の問題だということである。宮廷恋愛は、あらゆる障害を乗り越え、いかなる社会規範をものともせず流れ出る自然な感情などではない。ここで扱っているのは、まったく架空の式、「であるかのように」という儀礼的なゲームである。男たちは、自分の恋人は到達不可能な〈貴婦人〉だというふりをしているだけなのだ。





スラヴォイ・ジジェク『快楽の転移』(松浦俊輔/小野木明恵 訳、青土社) p.149

そこで、例によって、こういった自論を強化するために、小説や映画が動員される。もっとも、ここでは、「宮廷恋愛」についてなので、参照されるのは男女の関係──あるいは男女関係に「見える/見なされる」──を扱ったフィクションだ。だからニール・ジョーダン監督の『クライング・ゲーム』も、宮廷恋愛=異性愛としての「文脈」でアクロバティックに分析される。

クライングゲーム(1992) - goo 映画


クライング・ゲーム』の場合には「何もないはずのところに何かがあることを発見して、ショックが引き起こされる──という映画なのだ。ファーガスとディルの(逆転の)関係──どちらが〈貴婦人〉なのか、そして、だったのか。

eromenos(愛される者)が、その手を延ばして「愛を返す」ことにより、erastes(愛する者)へと変わる崇高な瞬間がここにある。この瞬間は、愛の「奇跡」、「〈現実界〉からの答え」を表している。このことから、主体自身は「〈現実界からの答え〉」の状態にあるとラカンが主張しているときにその念頭にあるものが把握できるだろう。つまり、この逆転が起きるまで、愛される者は対象としての身分をもっている。つまり、愛される者は、自分では気がつかない「自分の中の自分以上のもの」である何かのために愛されている。「他者に対する対象としての自分は何者なのか。他者がわたしに何を見てわたしを愛するようになるのか」といった問いに答えることはできない。
そこである非対称が立ちはだかる。主体と対象という非対称だけではなく、愛する者が愛される者の中に見るものと、愛される者が知っている自分自身の姿とが一致しないという、より根源的な意味における非対称である。


ここで、愛される者の位置を定めている逃れがたい行きづまりに気づく。他者がわたしの中に何かを見てそれを欲しているが、わたしはわたしがもっていないものを与えることができないというものだ。または、ラカンの言葉を借りれば、愛される者がもつものと愛する者が欠いているものとの間には何の関係も存在しないとも言える。愛される者がこの行きづまりを抜け出す方法は一つしかない。
愛される者が愛する者に向かって手をさしのべて、「愛を返す」のだ。
つまり、象徴的な身振りでもって、愛される者の地位と愛する者の地位を交換する。この逆転が主体化の時点を指し示す。愛の対象は、愛の呼びかけに応えた瞬間、主体に変容する。こうした逆転が起こって初めて、真の愛が出現する。ただ単に他者の中のアガルマに魅了されているだけでは、真に愛しているとは言えない。愛の対象である他者が、実はもろくて失われたものであること、つまり「それ」をもっていない者であることを体験しても、愛がその喪失を乗り越えた時にこそ、真に愛していると言える。
この逆転の時を見逃さないように、とくに注意しなければならない。愛する者と愛される者という二元性という最初の構図はなくなり、今や二つの愛する主体となったが、非対称はやはり存在する。なぜなら、対象自身が、主体化によって、いわば自身の欠如を表明しているからだ。




『快楽の転移』 p.170-171


ジジェクによればラカンは「宮廷恋愛のイデオロギーの中に明確に見出される理想化と崇高化の原理は、基本的にナルシズム的な性質をもつ」と認めているが、しかし重要な点は他にあって、それは「鏡はときにナルシズムのメカニズムを、とりわけそれに続いて遭遇する破壊性や攻撃性を示唆することもある。しかし同時に、他の役割、つまり限界としての役割も果たす。この鏡は踏み越えることができない。そして、鏡が機能するのは、対象に手を出せないという秩序においてだけである」(p.148)と。「宮廷恋愛の〈貴婦人〉の逆説は、「公の欲望」は〈貴婦人〉と寝ることであるのに、実のところ〈貴婦人〉がこの望みを寛大に受け入れることをわれわれは最も怖れている。〈貴婦人〉に対して本当に期待し望んでいることは、また新たな試練を、さらなる延期を与えてくれることなのだ」(p.158)


したがって『クライング・ゲーム』は、ジジェクによれは、次のような「意図・企図」を持った映画なのである。

体の触れ合いを許さない刑務所のガラスの仕切りという永遠の障害物は、対象を到達不可能にする宮廷恋愛における障害とまさに同じ役割をもつ。この障害があるからこそ、本質的に不可能な愛であっても──ファーガスは「ストレート」の異性愛者でディルは同性愛者であるために、二人の愛が成就することは決してないという事実があっても──愛は絶対的で無条件なものになる。
ニール・ジョーダンは、出版された脚本の序で次のように指摘している。

ストーリーの結末はハッピーエンドのようなものだ。のようなものと言うのは、刑務所の壁という障壁の他にも、人種、国家、セクシュアル・アイデンティティといったより深刻な障壁があるからだ。しかし、恋人たちにとっては、皮肉なことに、二人を隔てているもののおかげで、お互いほほ笑むことができる。だから、われわれの生活にある障壁にもまた希望があるかもしれない。


ほほ笑みを可能にするこの障壁──超えることのできない障害──こそが、宮廷恋愛の最も単純なメカニズムなのではないだろうか。この愛は決して成就することのない「不可能な」愛であり、観客の目をひくために作られた見世物として、もしくは永遠に引き延ばされる期待としてのみ存在し得る。
こうした愛は、階級や宗教や人種の壁だけではなく、性的な位置づけやセクシュアル・アイデンティティといった究極的な壁を乗り越えるがために、まさしく絶対的な愛である。ここに、この映画の逆説と、同時に、抗いがたい魅力がある。この映画は、異性愛は男性の抑圧の産物だという批判などではなく、愛が今日においても絶対的で無条件な性質を失わずにいられるような状況を正確に描いているのだ。



『快楽の転移』 p.172-173

そして、「愛」(性愛)が全面的に可視化されるからといって、それが「反政治的な物語」なるかといえば、そうではない、とジジェクは述べる。『クライング・ゲーム』にはアイルランドの現実政治──例えばIRAの闘争──が忠実に描かれている。「公的な政治活動」と「個人的な性世界」での転覆が反目しながらも「共犯関係」であるのだ、と。
だからジジェクは『クライング・ゲーム』の副題を以下のように言い放つ……

アイルランド人よ。共和国民たらんとせばいま一息だ!


快楽の転移

快楽の転移