HODGE'S PARROT

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グイド・レーニのサムソンと聖セバスチャン




ペテロ/Simon Petrus でさえこれほど肉感的に描くグイド・レーニ(Guido Reni、1575 − 1642)なのだから、三島由紀夫の『仮面の告白』で主人公を悩ます聖セバスティアヌス(St.Sebastian →)やサムソン(The Triumph of Samson ↓)がとりわけ輝かしい魅力を放っているのは言うまでもないだろう。
しかもその二つの作品を並べてみると──アーウィンパノフスキー流のイコノロジーで想像を逞しくするならば──どちらが Top でどちらが Bottom であるのかも、そのアトリビュートやキャンバスの造形からしてそれとなく窺えるのではないか。



グイド・レーニは僕の好きな画家の一人なので(なにしろ前にも書いたように「イタリア美術至上主義」なもので)ネットでその作品を見ることのできるグイド・レーニ関連サイトをメモしておきたい。

「ARTCYCLOPEDIA」が凄い。各国の美術館へのリンクが充実している。


Web Gallery of Art


その他

それと YouTube にはレーニ作による「複数の」Saint Sebastian という殉教者を、苦痛とエクスタシーという観点から紹介している映像があった。
Il tormento e l'estasi

この企画は現在、イギリスの Dulwich Picture Galleryで ”THE AGONY AND THE ECSTASY - Guido Reni's Saint Sebastians ”として催されているようだ。以下では英語の解説映像を観ることができる。これは必見だ!


この展覧会について英紙『インディペンデント』がずいぶんと力の入った記事を書いている。

Arrows of desire: How did St Sebastian become an enduring, homo-erotic icon? [INDEPENDENT]

Christian saints don't makethe cover of gay magazines every day – even less so in a slick of baby oil and a pair of Calvins. But such was the case with last July'sissue of reFRESH, the saint in question being played by French policeman-turned-TV-hunk, Sebastien Moura.


Was he playing Ignatius Loyola? Francis of Assisi? Paul of Tarsus? Not quite. The only saint who really cuts it as a cover-boy is St Sebastian, that curly-haired Roman youth shot with arrows on the orders of the emperor Diocletian. Sebastian's appeal to gay men seems obvious. He was young, male, apparently unmarried and martyred by the establishment. Unlike, say, St Augustine of Hippo, he also looks good in a loincloth and tied to a tree. And never was Sebastian more winsome than in the seven versions of him painted by Guido Reni, six of which go on show at the Dulwich Picture Gallery next month.

キリスト教の聖人はどうしてこうもゲイ・マガジンの表紙を飾るのだろう」*1と、この英高級は、 Dulwich Picture Gallery での「苦悶と恍惚──グイド・レーニの聖セバスチャン」展に関連して『reFRESH Magazine』のカヴァーを紹介する。


モデルは『インデペンデント』がきちんと記しているように──さすが高級紙だ──警察官からモデルへと華麗に転身(turned)した、Sebastien Moura だ。言うまでもなく、実際のセバスティアヌスが一軍人(officer)から殉教し聖人として奉られたようになったこと、そしてゲイのイコンへと転身を遂げたことを彷彿とさせるものだ。

on the cover of reFRESH: a paragon of male beauty, his toned body, prettily stuck with arrows, exposed to our gaze; the martyr described by Oscar Wilde – who, in French exile, took the alias "Sebastian Melmoth" – as "a lovely brown boy with crisp, clustering hair and red lips".

『インディペンデント』の記事では、厳密に史実に則れば「gay coverboy」としての聖セバスチャンには疑問があるのだが……とした上で、オスカー・ワイルド──彼は晩年にはセバスチャン・メルモスという別名で過ごしパリで客死した──を始め、『仮面の告白』で主人公にグイド・レーニを「使って」first ejaculation を経験させたミシマ、映画『セバスチャン』*2を製作したデレク・ジャーマンテネシー・ウィリアムズトーマス・マンスーザン・ソンタグらに言及し、 関連する近年の著書として Wolfgang Tillmans と Louise Bourgeois らの『Saint Sebastian: Or A Splendid Readiness For Death』を紹介する。

Saint Sebastian: A Splendid Readiness for Death

Saint Sebastian: A Splendid Readiness for Death



また、カナダ映画『Lilies』(1996年、ジョン・グレイソン/John Greyson 監督、邦題『百合の伝説 シモンとヴァリエ』)も劇中劇で聖セバスチャンの殉教が官能的に描かれていた。

The play dramatizes a period during Bilodeau and Doucet's childhood in Roberval, Quebec, when they were both coming to terms with their homosexuality. Doucet has a romantic relationship with Vallier (Danny Gilmore), while Bilodeau remains repressed and tries desperately to convince Simon to join the seminary with him. All three are involved in a school play dramatizing the martyrdom of Saint Sebastian, with Simon in the lead role. The St. Sebastian play's homoerotic undertones contribute to Bilodeau's sexual awakening, which involves an unrequited love for Doucet.




Lilies (film) [Wikipedia]


音楽はマイケル・ダンナ/Mychael Danna

Lilies: Original Motion Picture Soundtrack

Lilies: Original Motion Picture Soundtrack


そして原作はミシェル・マーク・ブシャルド(ミシェル・マルク・ブシャール)/Michel Marc Bouchard*3


[Michel Marc Bouchard Official Site]


Lilies or Revival of a Romantic Drama

Lilies or Revival of a Romantic Drama




ただ「Sebastian」というと、僕は、イーヴリン・ウォーEvelyn Waugh、1903 - 1966)の小説『ブライヅヘッドふたたび』(Brideshead Revisited 、1945)の登場人物、アロイシアスという名前の熊のぬいぐるみを抱いたセバスチアン・フライト卿を真っ先に思い出す。実際に「君を聖徒セバスチアンのように矢で針鼠のようにしてやりたいね」というセリフも出てくるのだが(ちくま文庫 p.48)、何よりも同性愛(Male friendship、tribute to homoeroticism)と信仰──イギリスでは少数派であるローマン・カトリック──が絶妙に絡み合っている感じがして、グッとくるものがある。大好きな小説だ。
例えば以下のセリフとか、カトリックについて話しているのか、それとも……

Brideshead Revisited ……私がブライヅヘッドに着いて二度目の日曜日に、フィリップ神父が帰った後で、列柱の所で二人で新聞を読んでいる時、セバスチアンが、「カトリックであるっていうことは実に難しいもんだね、」と言って私を驚かせた。
カトリックであることがそんなに大変なのかね。」
「そう、その為に苦しめられ通しなんだ。」
「そうかね。そんな感じがちっともしないけれど。君は誘惑に打ち克とうとでもしているのかね。私と比べてそう道徳的でもなさそうじゃないか。」
「私の方がずっと罪深いんだよ、」とセバスチアンは怒って言った。
「それで、どうしたんだ。」
「『神よ、私をいい人間にして下さい。併しまだしないで下さい、』って言って祈ったのは誰だったっけ。」
「さあ、君じゃないのか。」
「私は毎日、そう言って祈っているさ、併しそんなことじゃないんだ。」セバスチアンは「ニュース・オブ・ザ・ワールド」紙を読むのに戻って、「又、少年団の団長が変なことをしている、」と言った。
カトリックだと、色んな可笑しなことを信じなければならないんだろうね。」
「可笑しなことだろうか。それならばいいんだけれど、どうかすると、恐ろしく当を得ているように思われることがある。」
「併し、セバスチアン、君はまさか、あれを全部信じている訳じゃないんだろう。」
「どうして。」
「いや、つまり、クリスマスだとか、星がどうしたとか、三人の王に牛に驢馬っていうような、ああいうことをさ。」
「いや、それは信じるよ。美しいじゃないか。」






ブライヅヘッドふたたび (ちくま文庫)』(吉田健一 訳、ちくま文庫) p.127

The exact nature of Sebastian and Charles' relationship is never explictly referred to in the novel, though the line "naughtiness high in the catalogue of grave sins" has led to much debate. It should be noted however, that at the time of the novel's publication homosexuality was still illegal and any explicit allusion to it would have ensured that the story would have remained unpublished.




Lord Sebastian Flyte [Wikipedia]

ジェレミー・アイアンズ/Jeremy Irons とアンソニー・アンドリュース/Anthony Andrews のドラマも良かったな。こちらは「明示的な」シーンがあった。そしてチェスタトンの「ブラウン神父」を読むシーンも印象的だった。ただ邦題は『華麗なる貴族』なんだが……。

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Brideshead Revisited

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私は、ハックスリーからブラッドローまで、非キリスト教的、あるいは反キリスト教的な立場の人びとがキリスト教信仰を説明しているのを何度も読み返したが、読んでいるうちに、徐々に、しかし抗いがたい印象が、次第に、しかし生々と心に生まれてくるのを感じたものである。つまり、彼らの言うとおりだとすると、キリスト教というのは実に途方もなく異様なものにちがいないという印象を持ったのだ。


彼らの説明からすれば、キリスト教は、単に燃えるばかりの悪徳を持っているばかりか、お互いに矛盾しあう悪徳を同時に兼備する不思議な能力を持っていることになるからだった。


キリスト教はあらゆる方面から、しかも到底両立するはずのない理由から攻撃されているのではないか。


一人の合理主義者が、キリスト教は東に片寄りすぎていることを立証したかと思うと、次の合理主義者はたちまち、しかも同様に明確な論証によって、今度はあまりにも西に片寄りすぎていることを立証する。


キリスト教はあまりにも角張っていて攻撃的だという非難を聞かされたかと思うと、今度は打って変わって、あまりにも女性的で感覚的にまろやかであるという非難をきかされる。





G.K.チェスタトン『正統とは何か』(安西徹雄 訳、春秋社)*4 p.149


ライナス・ローチ/Linus Roache がゲイの司祭を演じた、アントニア・バード/Antonia Bird 監督、ジミー・マクガヴァーン/Jimmy McGovern 脚本の映画『司祭』(Priest)も同性愛と信仰を扱っていて、グッとくるものがあった。


The Priest



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久しぶりに観てみた。適度にユーモアが交えられており深刻になり過ぎないような配慮が感じられたが、しかし言うべきことがしっかりと描かれてあって、やはりいい映画だな、と思った。
それは、「リベラルで、異性愛者の」司祭マシューが、ゲイの司祭グレッグの「罪の意識」に接するときに表れている。「車中での行為」によって警察に捕まったグレッグに対してマシューは「君は独身の誓いを破っただけだ、差別される理由はない、異性愛も同性愛も同じだよ」と言葉を掛けるのだが、グレッグはそれに言い返さざるを得ない、「イエスは独身でした」と。しかもグレッグは恋人を「サタンの化身だ」とまで言う。マシューはそれに対し「どんな邪悪な洗脳を受けたんだ?」「傲慢だ」と呆れたように返す。ここでの二人の齟齬は重要であろう。
さらにグレッグが男性への愛(同性愛)を「リベラルで異性愛者の」マシューに「告白」し「その罪悪によって地獄に堕ちる」と苦悩するとき、マシューは「バカげてる。そんな知性やデタラメな人間性があるものか」と叱るのだが、グレッグは「私は泥沼の中だ。あなたは、ご立派な説をとうとうと論じる。でも、しょせんは他人事だ。あなたは傍観者。いい気なもんだ。どちらが傲慢です?」と声を荒げる。

カトリック教会では今、司祭が結婚を禁じられていることについて論争が起きている。このまま結婚を禁止していたら、聖職に就こうという若者が減ってしまう、と。しかも聖職に就こうという若者の中にはゲイが多い。だが彼らは驚くほど普通の若者たちなんだ。
問題は混乱からきている。ゲイを公表したゲイではなく、自分の中で折り合いをつけたゲイでも知的分析のできるゲイでもない。こうしたカトリックのゲイの若者たちは、同性愛をある種の苦悩と思っている。この映画ではそういう多くの問題を扱っているんだ。




ジミー・マクガヴァーン「司祭のことを書くのは私の使命だった」(『司祭』劇場用パンフレットより)

Priest [VHS] キリスト教にたいする攻撃のうちでも、特に強力だと私が思ったのは、「キリスト教的」と名のつくものには何かしら臆病で、抹香くさくて、男らしくないところがあるという攻撃だった。特に抵抗とか闘争についてのキリスト教の態度がそれである。
十九世紀の懐疑派の大物は、たいてい大いに男性的であった。ブラッドローは外向的に、ハックスリーも温和ながらに、断固として男であった。それに比べれば、キリスト教の説くところには、たしかにどこか弱々しく、あまりに忍耐を強調する傾きがあると感じたのである。


たとえばあの、右の頬を打たれれば、もう一方の頬を出せという福音書の逆説にしても、神父さんがけっして争ったためしがないという事実にしても、その他さまざまのことから推して、キリスト教は人間をあまりに羊のごとくしようと試みるという非難には、どうも一理あるように思われて仕方がなかった。私はそういう攻撃を読み、そのとおりだと信じ、そしてそれ以外のものを何も読まなかったとしたら、今でもそれを信じつづけていただろう。


ところが私はそれ以外の、似ても似つかぬ意見を読んだのだ。不可知論者の教科書の次のページをめくったとたん、私の頭はまったく転倒した。


今度はそこに、キリスト教はあまりに戦わないからではなく、あまりに戦いすぎるから憎むべきだと書いてあるではないか。今度の説では、キリスト教はあらゆる戦いの源なのである。キリスト教は血の洪水で地球をおおったというのである。


今までは、キリスト教徒はけっして怒らないから私はキリスト教徒にしんから怒っていた。ところが今は、人間の歴史を通じてキリスト教徒の怒りほど巨大で恐怖すべきものはないからこそ、キリスト教徒に怒りを持つべしと教えられるのだ。キリスト教徒の怒りは大地を浸し、太陽を曇らせるからこそキリスト教徒に怒れと聞かされるのである。


キリスト教の従順さはけしからん、修道院の非暴力は許しがたいと非難したその同じ連中が、今度はまた、十字軍の暴力と蛮勇はけしからんと言って非難する。エドワード証聖王が戦わなかったのも、リチャード獅子王が戦ったのも、みな(どういうわけか)同じ哀れなキリスト教の咎だというのだ。


絶対非戦論のクエイカー派こそキリスト教の代表だと聞かされるかと思うと、仮借なく王党派を殲滅したクロムウェルや、峻厳無比にオランダ人を弾圧したアルヴァ公こそキリスト教的罪悪の代表だと聞かされる。


一体これはどういうことか。いつでも戦いを禁止しながら、いつでも戦いを引き起こして来たキリスト教徒とはいったい何者か。


まず第一には絶対に戦おうとしないからといって非難し、そして第二にはいつでも戦っているからといって非難すべきものとは、そもそもどんな性質を持っていればよいというのか。この怪物じみた殺戮と、この化物じみた従順さが生まれたのは、全体どんな謎の国であるというのか。
刻一刻と、キリスト教の恰好はいよいよ奇怪さを増すばかりであった。






チェスタトン『正統とは何か』 p.153-154



貴方は貴方の一生の罪を悔いているでしょう、」と司祭が言った。「出来れば、頷いて下さい。貴方は悔いているのでしょう。」併し侯爵は動かずにいた。「貴方の罪を思い出して、神に悪かったと言って下さい。私はこれから貴方に神の赦しを与えます。その間、神に貴方が神を遠ざけて悪かったと言ってください。」司祭はラテン語で何か言い始めて、その中で私に、ego te absolvo in nominis Patris. 汝、汝を神の名に掛けて赦す、……という言葉が聞き取れた。そして私は司祭が十字を切るのを見た。その時、私も跪いて、「神よ、もし神というものがあるならば、又もし罪というものがあるならば、この人間の罪を赦し給え、」と祈った。





イヴリン・ウォー『ブライヅヘッドふたたび』 p.510









そういえばフランスの作家ドミニック・フェルナンデス(Dominique Fernandez、1929)の『L'Étoile rose』(邦訳『薔薇色の星』asin:4152075511)のカヴァーもレーニの聖セバスティアヌスだった。
→ http://www.amazon.fr/dp/2253026271/

L'Etoile rose, c'est le triangle rose que les nazis épinglaient sur les vêtements des homosexuels, mis dans les camps comme les juifs, les francs-maçons, les communistes et les tsiganes. Le titre du roman de Dominique Fernandez renvoie, sans ambiguïté, à cette persécution qui entoure, même si elle ne va pas jusqu'à l'étoile, les homosexuels dans notre culture... Tel qu'il est, entre roman et biographie, entre calme et peur, entre angoisse et bonheur, c'est un livre magnifique, une bonne chose.

[Dominique Fernandez]





聖セバスティアヌスの絵画・彫刻などに関しては、以下のサイトがほとんどデータベースとして活用できる。それこそ教会の名も無き作者によるフレスコ画からブルース・ウェーバーの写真、イタリアのゲイ雑誌『Babilonia Magazine』の表紙を飾ったピエールとジル/Pierre et Gilles の作品(→)まで網羅されている。



音楽ではクロード・ドビュッシーによる舞台作品。脚本はガブリエレ・ダンヌンツィオ*5、衣装はレオン・バクスト/Léon Bakst が担当した。フィリップ・ジュリアン/Philippe Jullian によれば、この作品成立には、かのダンディ、ロベール・ド・モンテスキューRobert de Montesquiou が絡んでおり、彼の下そのメンバーたちは「聖セバスチャン研究」を行ったのだという。

1900年のプリンス―伯爵ロベール・ド・モンテスキュー伝 モンテスキューダヌンツィオにフランス語で書くことを決意させ、みずからのもてる綺語という装飾品を提供する。書き終えると彼は入念にイタリア語特有の言い廻しや、ついつい混り易い古語法を取り除いてやる。この作業は思いやりに充ちたもので、自分のよりもずっと上質な抒情の力がダヌンツィオにあるのを認め、常にそのまえに敬意を表しつつ進められた。
勿論バクストが舞台装置を担当する。彼はバクストを伴ってルーヴルへ行き、ササン朝ペルシャの織物やビザンチンの七宝細工、シリアやエジプトで発掘された、東西の様式が混淆している浅浮彫を見る。彼らは皆で美術書を閲覧してあらゆる聖セバスチャンを研究する。




フィリップ・ジュリアン『1900年のプリンス 伯爵ロベール・ド・モンテスキュー伝』(志村信英 訳、国書刊行会) p.341

マイケル・ティルソン・トーマスMichael Tilson Thomas 指揮&ロンドン交響楽団・合唱団のCDのカヴァーはソドマの作品だ。

Martyrdom of St Sebastien

Martyrdom of St Sebastien







セックス、アート、アメリカンカルチャー プロテスタント信仰のいちばんの問題点は、言葉に縛られていることだ。プロテスタントでは聖書研究が中心になっている。人間と神のあいだに肉体をもった仲介者は必要とされない。聖人やマリアや神の肖像を描くことは許されない。ただし、二十世紀に入って、いくつかの宗派ではイエス・キリストの肖像が広まってきてはいる。そんなプロテスタントとちがって、高度に儀式化されたイタリアおよびスペインのカトリック信仰はつねに人間の五感へじかに訴えようとする。


幼いわたしの記憶に残っているのは、洗礼を受けた教会の祭壇のそばの窪みに飾られた色鮮やかな彫像に目を奪われ、じっと立ちすくんでいたことである。若々しい聖セバスチャンが誘惑的に身をくねらせ、半裸の身体には矢がつきささって血が流れている。そのような図像学に見られるめくるめくほどのSM的な官能性は、古代ローマカトリックの流れをくむ埋もれた異教精神のあらわれだとわたしは理解する。カトリック磔刑図や殉教する聖人たちの表情には異教の本能が隠されている。
人間の肉体に宿る生命力は、快楽と苦痛の反復というディオニュソス的世界にある。






カミール・パーリア『セックス、アート、アメリカンカルチャー』(野中邦子 訳、河出書房新社) p.51

Sexuality and the Christian Body: Their Way into the Triune God (Challenges in Contemporary Theology)

Sexuality and the Christian Body: Their Way into the Triune God (Challenges in Contemporary Theology)

between rough and ice......


おとぎ話をしてあげよう。むかしむかし世界を論理そのものにしようと夢みる若者がいた。たいへん頭のいい彼はその夢を実現した。仕事をやり終えた彼は、一歩下がって出来栄えを見た。それは美しかった。地平線まで音もなく続く、きらめく果てしない氷原のように、不完全も不確実なものもない世界。賢い若者は自分の創作した世界を見回して、探索に出かけることにした。


一歩踏み出した彼は仰向けに倒れた。<摩擦>のことを忘れていたのだ。氷はツルツルで起伏がなく、シミひとつなかったが、その上を歩くことはできなかった。そこでその若者はそこに座り込み、自分のすばらしい創造物を見ながら涙にくれた。


でも年をとって賢い老人になるにつれ、彼にはわかってきた。ザラザラや不確実なものは欠点ではないのだと。それは世界を動かすものなのだ。彼は走ったり踊ったりしたくなった。


その地面に散らかった言葉や物はどれも壊れ、色あせて形も定かでなかった。だが、賢い老人はそれこそが物のあるべき姿だと悟った。それでも彼の中の何かが氷原を恋しがった。そこではすべてが輝き、純粋で絶対だった。ザラザラの地面という<概念>は老人の気に入ったが、そこに住むことはできなかった。それで彼はザラザラの地面と氷の間で(between rough and ice)で身動きができず、どちらにも安住できなかった。それが彼の悲しみのもとだ。




ヴィトゲンシュタイン』監督、脚本/デレク・ジャーマン(『DICE TALK 骰子カッティング・エッジ・インタヴュー集』、河出書房新社*6 p.444

はっきりと浮かび上がらせなければならない第二の点は、神学の発生するすべての段階に見出される発展という概念である。信者個人のなかでも教会のなかでも、信仰は自動力のない現実ではなく、ダイナミックな現実である。


信仰は行動を促すだけにはとどまらず、それ自身成長し、花開いて知的理解となる。あまつさえ、信仰の知的開花にほかならない神学は、これまで発展してきた現実であり、いまも発展しつづける現実であって、内側からは信仰によって促されると同時に、外側からは、提起される数々の質問によって刺激を受けているのである。教会は歩みつづける神の民として、時間と歴史のなかに成就する。


その信仰は、実質としては変化しない。しかしそれがその実質について与える表現と説明は変化しうるのである。神学は、それ自身の領域で、キリスト者と教会の条件に参与している。




ジャン=ピエール・トレル『カトリック神学入門(渡邉義愛 訳、白水社 文庫クセジュ) p.22

(映画『司祭』の)あの最後の場面にいるのは、自分を罪びとと思う司祭と、おぞましい傷を負わされた少女だ。彼女は立ち上がり、彼を赦す。これこそ最も気高い慈悲と憐れみであり、聖体拝領というものだ。聖体拝領とは、裸で十字架をかけられ、傷つき、血を流し、死にかけている男の痛みを分かち合うことなのだから。それは、人類共通の慈悲と憐れみなのだ。




ジミー・マクガヴァーン「司祭のことを書くのは私の使命だった」




The Divine Guido: Religion, Sex, Money, and Art in the World of Guido Reni

The Divine Guido: Religion, Sex, Money, and Art in the World of Guido Reni

このレーニの《アトランタとヒッポメネス》をカヴァーにあしらった Richard E. Spear 著『The 'Divine' Guido: Religion, Sex, Money, and Art in the World of Guido Reni』(Yale University Press)は面白そうだ。Amazon の紹介によると

discusses the interlocking effects of "Religion, Sex, Money and Art" in the work of a painter who was violently pious, an addicted gambler always greedy for money, a believer in witchcraft, a homosexual by inclination (not necessarily by practice), and a man very testy about his social status. Not an attractive figure.

「今晩は二人で本当に酔っ払おうか。」
「今晩だけはどう考えても、その為に困ることになるということはなさそうだね、」と私は言った。
「世界を向こうに廻してか。」
「世界を向こうに廻してだ。」


(中略)


「神は行い澄ました人間の多くよりも飲んだくれの方を愛していらっしゃると思うのだが。」




『ブライヅヘッド ふたたび』 p.218-219

[関連エントリー]

*1:Donald L. Boisvert 著『Sanctity And Male Desire: A Gay Reading Of Saints』(Pilgrim Press)があるようだ。
また同著者の『Gay Catholic Priests And Clerical Sexual Misconduct: Breaking The Silence』や『Out on Holy Ground: Meditations on Gay Men's Spirituality』もチェックしておきたい。

Gay Catholic Priests and Clerical Sexual Misconduct: Breaking the Silence (Gay and Lesbian Studies)

Gay Catholic Priests and Clerical Sexual Misconduct: Breaking the Silence (Gay and Lesbian Studies)

*2:Derek Jarman『Sebastiane』
http://www.imdb.com/title/tt0075177/
http://en.wikipedia.org/wiki/Sebastiane
http://www.amazon.co.uk/dp/B000092T59/

*3:ミシェル・マルク・ブシャールの作品は『孤児のミューズたち』(Les muses orphelines)が佐藤アヤ子訳で彩流社より出ている。

孤児のミューズたち

孤児のミューズたち

*4:

正統とは何か

正統とは何か

*5:見かけたことがないのだが、三島由紀夫池田弘太郎による邦訳があるようだ。美術出版社/国書刊行会

*6:

DICE TALK―骰子カッティング・エッジ・インタヴュー集

DICE TALK―骰子カッティング・エッジ・インタヴュー集