HODGE'S PARROT

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恋するトカゲの哀歌



《ル・マルトー・サン・メートル(主なき槌)》、《婚礼の顔》と並んでピエール・ブーレーズの「ルネ・シャール三部作」を形成する《水の太陽》の動画が YouTube にあった。指揮はもちろんブーレーズ自身だ。

Pierre Boulez - Le soleil des eaux

人間が銃を撃つぞ、隠れるのだ、
ひまわりは人間の共犯者だ。
草だけがおまえの味方だ、
容易に撓む野原の草だけが。


蛇はおまえを知らない、
そしてイナゴは気難しい。
モグラのほうは、目が見えない、
蝶はだれも憎まない。




ルネ・シャール「恋するトカゲの哀歌」(西永良成 訳、平凡社ルネ・シャールの言葉』より) p.74-75


→ René Char (1907 - 1988) [Wikipedia fr]




《水の太陽》は精緻に非情なまでに厳格に処理された現代音楽であるけれども、ソプラノ独唱、混声合唱、フル・オーケストラという大編成からなる芳醇な響きに、まるでマーラー作品のようなリリシズムを感じてしまった。端的に、美しい。

……最終的に『水の太陽』のためにブーレーズが選んだ二つの詩(「恋するトカゲの哀歌」「ソルグ川」)について興味深いのは、両者とも、シャールの詩には珍しく、定型詩ないしそれに近い性格の詩だということである。題名からも分るように、元来「歌」ないしは「歌謡性」を考慮して作った詩なのだろう。
前者は七つの八音綴りの四行詩から成り、豊かとは言えないが、一応交錯韻を踏んでいるし、後者は、四番目だけは一行だが、他は二行ずつの十一詩節から成り、すべての詩節が「川 Riviére」の語で始まり、脚韻も踏んでいる──「プサルモディー」的な性格をも持った「ソルグ川」のテクストは、ポリフォニックな合唱によって、ある意味では解体されていく。




笠羽映子「シャールとブーレーズ──ある邂逅の重みと波紋」(青土社ユリイカ』1995年6月号)p.157

かれ(=ブーレーズ)の前衛的特異を支えているのは、一口でいえば、「音」をめぐる飽くなき探索と「言語」の創造性をめぐる確信であるように思う。
「音」をめぐる模索でいえば、作曲技法から限りなく抒情性とロマン性を削り落とす作業、いわば過去を削り落とし、未来の語法だけを残す知的作業と取り組みつづけている。


(中略)


他方、ブレーズにおける「言葉」の効用は、いわば無限のふくらみをもつ。詩に秘められた言葉のリズムに対する感覚が異常に鋭いだけではない。かれは、本質的には、豊かな言葉と才気ばしった修辞法をもった哲学者なのだ。時には、言葉でもって政治的に激しくたたかうイデオローグでさえある。ブレーズ自身、自分の文章作品を「参照点(points de repére)」、つまり自分の音楽の質にかかわる「目安」として重視しているのである。





矢野暢「ブレーズの創造的孤立」(音楽之友社『20世紀音楽の構図―同時代性の論理』より) p.40

ブーレーズにおける「近代以後」の展開は、生来の傾向である「響き」の美への全面的な肯定として発現する。かつて十二音のドグマによって分け隔てられていた、協和、不協和音の差別化自体はトータルセリエールの高エントロピー状態を経て徹底的に無効化し、そのあとに音響そのもの肯定がなされたのである。


更に彼は、過去の記憶にある音響すら、「寛容さ」という形で結果的に肯定する様になる。特に既成のテクストの演奏面に於いて、彼は密かに楽員や楽団の持つ記憶を引用しはじめる。それは例えば「ウィーン・フィル」という個人の記憶の総体を引用してマーラーのツィクルスを組みことであり、クレーメルポルタメントをあしらいながらベルクの「室内協奏曲」を演奏する、という事である。若年の彼であれば奏者の引きずる過去の記憶は最も憎むべき「ロマン的心情に基づく」曖昧さとして忌避されたに違いない。




伊東乾「時空の操作者──指揮するP・ブーレーズ」(青土社ユリイカ』1995年6月号)p.116

伝達される力と狭い水路の入り口にはいる叫びの川、
葡萄畑に侵入し、新しい葡萄酒を告げる嵐の川よ。


監獄に熱中するこの世界で、けっして破壊されない心をもつ川よ、
私たちを暴力的なまま、地平の蜜蜂の友のままにしておいてくれ。




ルネ・シャール「ソルグ川──イヴォンヌのための歌」(『ルネ・シャールの言葉』より) p.20




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