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わたしの嫌いなクラシック

世に、名曲や名演奏を紹介する類の音楽入門書は溢れている。が、それって、結局、「私の好きな作品や演奏について」の本なのではないか。ネット上においてもまたしかり。熱の篭った楽曲紹介、演奏記録ってのは、「それほど私はこれが好きなんです」という所信表明でないか。

「好き」というキーワードでテクストが書けるなら、では、「嫌い」ではどうか。これが意外にない。というか、それを説得力を持って理路整然と表現し──しかもそれで「共感を得る」のは結構難しい。

なぜその音楽が嫌いなのか。ごく単純にいえば、大脳のなかで、海馬から提供された情報を扁桃体がそう判断した、それだけにすぎないことだ。




鈴木淳史『わたしの嫌いなクラシック』(洋泉社)p.11

この鈴木淳史『わたしの嫌いなクラシック』は、「嫌い」という「キーワード」で、クラシック音楽を紹介する。扱われているのは、誰も知らない作曲家やその作品、箸にも棒にも引っ掛からない演奏家では、むろんない。モーツァルトベートーヴェンらの偉大な作曲家、カラヤンバックハウスといった著名な演奏家についてである。それらを「嫌い」というキーワードで論じる、というものなのである。
面白い。

以前は、「怒りのブーレーズ」などと呼ばれ、そこらじゅうの作曲家や知識人に論争をふっかけ、「歌劇場を爆破せよ」などと大衆にケンカを売っていたのに、今じゃ話がわかりそうな好々爺の風情である。作曲家としてのブーレーズも、前はさんざんバカにしていた作曲家に近づいてみたりと、すっかり人が変わってしまった。
最近になって、怒らなくなってからのブーレーズの一連の録音を聴き返してみた。そこには透徹した意志なんてものはないけれど、彼自身のリラックスしてますよという心境が聴こえてきて、それが不思議と心地よく感じられたものだった。



「ヘルベルト・ケーゲル」よりp.123

シンボルの集積で作り上げられているファンタジーは、一見すると見る者に自由な鑑賞態度を許してくれるようにも思える。しかし、実際はそうじゃない。童話にはあきらかな教訓が隠れており、多くのRPGには「みんなで力を合わせて、困難に立ち向かおう」みたいなメッセージが潜んでいる。



モーツァルト/歌劇《魔笛》」よりp.23


ところで、鈴木氏は、この本の序章で「嫌い」は観念から生まれる、と主張する。「わたしがある音楽を嫌うというのは、観念によってそれを嫌うといえる。

生理的な嫌悪感というのはどうなのか。人によっては、聴くと背筋が寒くなるメロディ、吐き気を催す和声、やるせない気持になる十二音音列モデルなど、これは観念ではなく、生理的に苦手なのだと。
そういうものすべて、観念による判断ではなかろうか、とわたしは思う。それは本人が意識してないにしろ、何かの直接体験によって判断された結果なのだ。体験されたものは、すべて過去のものであり、それは観念としてわたしたちのなかに収納されている。つまり、体験を積めば積むほど、観念は増えていくというわけ。


現代音楽が不協和音ばかりで嫌いだ、という人は少なくない(そういう曲を聴いたことがある人自体少ないが)。しかし、そういう人は「音楽はこういうもの」という観念を持ってるからなのだ。幼少の頃からの音楽体験によって作られた観念が、不協和音だけで作られている音楽を嫌いにさせる。現に、生まれたばかりの乳幼児にこういう音楽を聴かせても、特別に嫌がったりしない。「音楽はこういうもの」という観念がまだできあがってないからだ。




p.13-14

新書139 わたしの嫌いなクラシック 鈴木淳史 著 (新書y)

新書139 わたしの嫌いなクラシック 鈴木淳史 著 (新書y)