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メタ・メッセージはない。ナポレオン・ボナパルトへの頌歌





シェーンベルク作曲『ナポレオン・ボナパルトへの頌歌』(Ode to Napoleon Bunaparte)のピエール・ブーレーズ&アンサンブル・アンテルコンタンポランの「新録」を聴きながら、以下の文章を書いている。DG盤の演奏は、かつての「怒りのブーレーズ」から「余裕の巨匠」の趣さえある。



id:ululun氏の「川原泉は皮膚病患者を嘲笑したのか-創作に於ける表現の自由は何処まで容認されうるか」というそれ自体「メタメッセージ」に応えてみる。

まずは「性に対する正しい情報を伝達していない。それは差別的表現である。イクナイからやめろ」というメッセージから。これを「字義どおり」つまり「単なるメッセージ」として応える。
ululun氏の言う「こういう人」というのは、キャサリン・マッキノンらの「ポルノ否定派」フェミニストに近いものだろう。ululun氏は、僕のエントリーを巧妙に、「差別表現問題」から「性表現問題」へとズラしているが、問題はない。マッキノンのポルノ批判は、「表象批判」として一貫した主張が見られるからだ。マッキノンが批判するのは、まさにその「自由」つまり「表現の自由」への懐疑である。
ululun氏は「誰がそれを発言したのか」を重要なポイントとして挙げる。そして、それが「キャラ」であることを重視する。しかしマッキノン的に言えば、川原泉の作品は、どのような人物がそれを「製作」(表象)し、その消費者とは誰なのか、が重要なポイントとなる。「差別的なキャラ」を登用するのは、なぜか。その効果は。

このアプローチにおいては、誰が傷つき、誰が救われるか、あるいは誰が支配することを許され、誰が服従を強いられているかということは顧みられません。




キャサリン・マッキノン「戦時の犯罪、平時の犯罪」(みすず書房『人権について』よりp.115)


マッキノンは男女差別を前提にしているのだが、これをマイノリティ差別へと応用する。すると「表現の自由」とは、実は「偽装された支配体制」の顕れなのではないか、という疑問が湧きあがる。異性愛者は常に同性愛者を「対象化」するポジションを占める。「能動的」なのである。同性愛者は表象される客体=受動性しか残されていない。表象は「暴力行為」である。ここから導き出されるのは、マジョリティは「ファックする」主体、マイノリティは「ファックされる」客体。マジョリティはマイノリティを「レイプする」ことによって、サディズム的快楽を得ている──支配自体に快楽を覚えるようになる。かくしてマジョリティはマイノリティを「どのように扱うべきか」を、川原作品(マッキノンが批判する「ポルノ」)から「習得する」。

もちろんマッキノンには批判が多くある。しかしマッキノンを批判するには、ある程度の「了解」が必要であると僕は考える。つまりマッキノンは米国の「主流のフェミニズム」に位置し、自身、有力な法学者・弁護士としてセクシュアル・ハラスメント法を制定させた。ある種の「権力」を持っているのである、この人は。「発言力」を持っているのである。


そこで、ululun氏のメタメッセージである。結論から言うと、僕は、このエントリーから読めるのは「マイノリティは黙っていろ!」である。
まずululun氏は「川原泉は皮膚病患者を嘲笑したのか」とくる。ululun氏の決定的な「すり替え」は、僕がyskszk氏のエントリーでギュンター・グラスを引き合いに出したことへの違和をそっくり完璧なまでに無視していることだ。「同じ構造」なのは、グラス問題ではなく、皮膚病患者問題である──と、ともに現在ホットな話題へ言及し、「川原泉問題」への擁護と批判が行われたにもかかわらず、だ。
メッセージありき──ululun氏のエントリーはところどころ物分り良く「勿論」「もし」「○○はよい、しかし」などと「留保」が示されているが、主張は以下に極まるだろう。

しかしその批判は大凡この世の中に溢れている少なくとも漫画という表現で取り扱われている性に対する表現の殆ど全てを「性に対する正しい情報を伝達していない。それは差別的表現である。イクナイからやめろ」と言っていることに繋がるという事を意識したほうが良いだろう。




「川原泉は皮膚病患者を嘲笑したのか-創作に於ける表現の自由は何処まで容認されうるか」

「意識しろ」である。これは「批判することがイクナイ」と威嚇しているように僕は受け止める。
とまれ。ululun氏が「以下例示」で示した、いくつかの「性表現」数々。これらの「性表現」は、いわゆる「18禁」と呼ばれ、レイティングとゾーニングの対象になっているのではないか。とくに「男性向け」はそうである。しかしセクシュアル・マイノリティへの「差別表現」はどうか。僕は以前「愛ゆえのレイプ、愛国心ゆえにのレイプ」というエントリーを書いたが、まさに「同じ差別的性表現」を扱っているにもかかわらず──「性に対する正しい情報を伝達していない。それは差別的表現である」にもかかわらず──「やおい」と「男性向け」ポルノの扱いの相違が見られること。僕は「そのこと自体が差別」であると考える。
したがって、男性向け「18禁」ポルノとセクシュアル・マイノリティを「差別的に扱った」少女漫画を同列に扱うことはできない。川原泉作品は「18禁」ではない──ululun氏が「以下例示」で示した内容のものと「同じ差別」を扱っているにもかかわらず、だ(「同じ構造」と看做したから川原作品と「以下例示」を同列に扱っているのだろ?)。

ululun氏のエントリーは、「メタメッセージ」として機能している。「マイノリティは批判するな」というメッセージである。しかしそれは本当に「メタ」なのか?

メタ・レイシストはたとえばロクトス事件にどう反応するか。もちろんかれらはまずネオ・ナチの暴力への反発を表明する。しかし、それにすぐに付け加えて、このような事件は、それ自体としては嘆かわしいものであるにせよ、それを生みだした文脈において理解されるべきものだと言う。それは個人の生活に意味を与える民族共同体への帰属感が今日の世界において失われてしまったという真の問題の、倒錯した表現にすぎない、というわけです。

つまるところ、本当に悪いのは「多文化主義」の名のもとに民族を混ぜ合わせ、それによって民族共同体の「自然」な自己防衛機構を発動させてしまう、コスモポリタンな普遍主義者だということになるのです。こうして、アパルトヘイト(人種隔離政策)が、究極の反レイシズムとして、人種間の緊張と紛争を防止する努力として、正当化されるのです。


ここに、「メタ言語は存在しない」というラカンのテーゼの応用例を見て取ることができます。メタ・レイシズムレイシズムに対する距離は空無であり、メタ・レイシズムとは単純かつ純粋なレイシズムなのです。それは、反レイシズムを装い、レイシズム政策をレイシズムと戦う手段と称して擁護する点において、いっそう危険なものと言えるでしょう。




スラヴォイ・ジジェク『「歴史の終わり」を越えて』(中公文庫)p.70


表現の自由」を担保にしているのは、言論への圧力を掛けているのは、ululun氏の方なのではないか。川原泉の「メタ・メッセージ」は「メッセージ」そのものであると僕は考えている。その差別への「異議申し立て」(クレイム)を、様々な「例示」と「留保」を織り交ぜた文章で、「批判することが悪い」へと導いている。
しかもだ。

現実で人を殺したら殺人罪で捕まるが、漫画の中でなら何人殺してもその作家は逮捕されないからだ。




川原泉は皮膚病患者を嘲笑したのか-創作に於ける表現の自由は何処まで容認されうるか」

これほど「意味のない」、当たり前のこと書くのが、名うてのブロガーでブックマーカのululun氏なのか。こんな「抽象的」なことを記しても、何の効果もないことは、「はてな周辺」で気の効いたコメントを幾度となく書き束ねている人物の「メッセージ」ですら、ない。問題となるのは、ululun氏も承知しているように、「誰が殺して」、「誰が殺される」──女性か、セクシュアル・マイノリティか、黒人か、ユダヤ人か、民族的マイノリティか──に他ならない。
なぜ、こんな「無意味なこと」を書くのか。しかしそれは「意味を与える」のである。このululun氏の言わんとすることは何か。

性的に不平等な社会では、強者の言論は、弱者の真理をあの絶望的な黙従のかげに隠すこと──同意のふりをさせ、抗議をさせぬようにし、抗議があっても聞きとりにくくさせること──を通して、世界にその見方を押しつける。




キャサリン・A・マッキノン『フェミニズム表現の自由』(明石書店)p.260-261

むろん、メタメッセージは、ない。






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