HODGE'S PARROT

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落下する猛獣──ジル・ドゥルーズの自殺には、それ相応のガッツがあったに違いない


澤野雅樹『死と自由』より。人間にとって病死や事故死は、自殺とは違って、試す/真似ることができない──そして自分で試すことの出来ない死に対してのみ、権力の介入が可能になる。ジル・ドゥルーズの自殺は、その本性においてスポーティだった。「死ぬことが出来るのは野生の動物だけなのである……人間的な死にとって死角となるようなところに、そっと動物の死を復活させること」。ベッドに横たわるスポーツ選手。あらゆるエクリチュールには一種のアスレティズム(陸上競技)が伴う。「猫だの犬だのを愛でるような連中は、例外なく、うすのろ野郎だ*1

ドゥルーズはどうして自殺したのか? この問いに的外れなところがあるとすれば、なぜ死んだのか、どういう事情があって自殺を決意したのか、という問いに結びついてしまう時である。むしろ、こう問うべきではなかったろうか──どんな動作から始まり、どんな歩き方で、どれくらいの歩数をどれくらいの速度で歩き、どうやって窓の外に肉体を押し出し、どういう恰好で身を投げたのか?
言うまでもないが、警察の現場検証に興味があるわけではないし、それを真似ようという意図もない。もっと無粋な問いに身を委ねたいだけのことだ。なぜなら、こうした無粋な問いの中でこそ、はっきり分かることがあるからだ──自殺がその本性において試されるものであるということ──。そう、自殺は、実行するか否かに関わらず、繰り返し試されるものである。骰子の一擲のように「死」を思い付く。二度目の考えは第一の考えに依存し、それを条件にしながら新しい線分へと受け継がれるだろう。それは死によって終結するというよりも、死を貫いて終わることのないところまで続いて行く。
ところが病死や事故死は試されない。これは致命的な欠陥である。それらは不意に──予想通り、しかるべき時と場所に現れたとしても、やはり不意に──到来するものである。だから試しようがない。想像出来ることといっても、せいぜい車のスピードや病気の進行の度合い、医師の処方くらいのことである。病死や事故死は真似ることが出来ない。そして、自分で試すことのできない死に対してのみ、権力の介入が可能になる──たとえば余命を巡る社会的、財政的、医学的な管理、生と死を巡る討議と合意のプロセス、それを統制するための新たな権力の編成、交通規則による死者や負傷者の量的なコントロール等々。バロウズが発見し、フーコーが予感し、ドゥルーズが提唱した「コントロール社会」が既に到来した時代の真っ只中に我々は生きているのである。……この「生きて在る生」において日々問題化されながら──。
それゆえ自殺の鍛錬の、その先に権力の出口があるなどと考えないようにしよう。もし権力をたぶらかすために自殺するような輩がいるとすれば、間違いなく底なしの馬鹿者と呼ばれるだろう。また他方、闇雲に自殺を告発し非難する者は、その理由が何であれ、あまりに正し過ぎる告発や非難の内に、いつしか権力の無念さを代弁していないかどうか、一度でも勘繰ってみるべきだろう。我々はむしろバロウズヘミングウェイについて述べた言葉を真似て、こんなふうに言ってみたくなる。色々言いたいのは分かる、しかし、あれをやるにはガッツがいるんだ。
それというのも、ジル・ドゥルーズの自殺には、それ相応のガッツがあったに違いないからだ。もっとも差し迫った問題、もっとも重大な問題とはいったい何だったのであろうか? 自殺を決意することだろうか、あるいは彼をして決意せしめた事情の方だろうか。いや、どちらでもない。もっとも切実な問題は、いかにして自殺のプロセスを作り出すかということである。複数の異なる行為を連結させ、組み立てられた連鎖の流れの中に置き、或る制限時間内にすべてを成し遂げること──あるいは病室の中に一種のアスレティズム(陸上競技)を出現させること。

(中略)

ひっそりと独りだけで行われた一度限りのアスレティズム。記録もなければ、観客もおらず、競技名さえないが、一度だけ実施された動作の内に何度となく試されたプロセスのすべてが反復されている。少なからぬ人々がドゥルーズの死に清々しささえ感じることが出来たのは、彼の自殺が本性においてスポーティだったからに違いない。



澤野雅樹『死と自由  フーコードゥルーズ、そしてバロウズ』(青土社) p.205-209

死と自由

死と自由



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*1:”三種類の動物を区別することも必要になるだろう。まず最初に個体化され、飼い慣らされた、家族的、感傷的な動物。つまり「うちの猫」、「うちの犬」など、瑣末な物語に登場するオイディプス的な動物。こうした動物は私たちを退行へといざない、ナルシス的静観に引き込む。精神分析にはこの種の動物しか理解できない。こうして、安心してその背後にパパやママや弟の像を見出していこうというのである(精神分析が動物について語るとき、動物たちは笑うことを覚える)。猫や犬を愛する者は、例外なく馬鹿者だ。それから二番目の種類として、性格ないしは属性をもつ動物を考えてみることができる。これは属に分かれ、分類され、国家に属する動物だ。主だった神話はこうした動物をとりあげ、そこから系列か構造のいずれか、あるいは原型かモデルのいずれかを引き出してくるわけだ(ユングは、フロイトに比べるならまだ深淵だ)。そして最後に、悪魔的な面が強く、群れと情動をその特質とするのみならず、多様体や生成変化や個体群やコント[奇譚]を作り出す動物がいる……。というか、これはすでに説明したことだが、すべての動物を三様にあつかうことができるのではないか? シラミでもチーターでもいいし、象でもいい。どんな動物にも、人間になじんだ動物として処理され、従順なペットになりさがる可能性があるのだ。また、正反対の極では、あらゆる動物が、われわれ魔術師に好都合な群れと繁殖の様態にしたがって処理されることもありうる。猫や犬でさえそうだ……。そして群れの中に牧童や指導者や悪魔の〈お気に入り〉がいたとしても、それは先ほどの場合と同じではない。”ドゥルーズ=ガタリ千のプラトー』(宇野邦一小沢秋広、田中敏彦、豊崎光一、宮林寛、守中高明 訳、河出書房新社)p.278

千のプラトー―資本主義と分裂症

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