HODGE'S PARROT

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アベルの死のフォトジェニー




以前からちょっと気になっていたフランスの新古典派の画家、フランソワ=グザヴィエル・ファーブル(François-Xavier Fabre、1766–1837)にも、想像を逞しくさせるのに十分な《聖セバスチャン》の絵があった。

なんだか構図が気になるよね。この絵では矢が二本しか描かれていないのだが、腕に突き刺さっている方の矢の角度を考えると、かなり低い位置から発射されたように思えてならない。そしてもう一本の矢はセバスチャンの開いた足元にあって、微妙に上向き、しかも矢の向きは逆向き──矢を放った人物に向かっているようだ。


この「気になる」画家、フランソワ=グザヴィエ・ファーブルの「フォトジェニックな」作品は以下の「ART CYCLOPEDIA」のサイトにまとまっている。


とりわけ、《オイディプスとスフィンスク/Oedipus and the Sphinx》はいい感じだな、と思う。
http://www.daheshmuseum.org/collection/detail.php?object=fabref_1 (このリンク先でズームインなどができるのでオイディプスのルックスや下半身、アトリビュートの「効果」を確認したい)


ただ、ART CYCLOPEDIA には僕が最初に「気になった」絵画作品が紹介されていないようだ。それは《アベルの死/Death of Abel》。


言うまでもなく、アベル旧約聖書の創世記に登場する人物だ。彼は兄のカインに殺された。
この絵もかなり「分析」しがいのあるものなのだが……何というか「死んでいる」ように見えないし、だから例えば「殺人者」カインの視点からだと「羊を飼う者」アベルはどのように見えているのだろうと、その「フォトジェニックな」表情や足の開き具合とか……。

カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。




創世記 4.8 (新共同訳『聖書』より)

いちおう「フォトジェニー」という言葉について。長木誠司氏が『レコード芸術』(2007年11月号)の「”運動”としての戦後音楽史 1945〜」でとても納得のいく説明をされていたので、参考として記しておきたい。文脈としては、伊福部昭の言う「効用音楽」としての映画音楽について解説している部分である。

フォトジェニー(Photogenie)とは、いまでは「撮影効果」とか「映像効果」、「写真映り」のような意味で普通に用いられているが、本来はトーキー以前に1920年代のフランス映画人たちがモードのように好んで用いていた、映像そのものに関する術語であり、「映画的再現によって価値を与えられ、かつ美化されるような人間や物体の姿」(ジャン・エプスタン)であった。


すなわち、現実の姿ではなく、レンズを通し、映像として固着されることにより、現実の姿が美的に高まるような効果の謂いである。
伊福部はこのことばを、モンタージュなどで編集された映像の律動が要求する音楽、その効果によって映像独自の律動が高まるような音楽という意味で用いている。もともとの「フォトジェニー」との共通点は、本来付属しない要素が付属することによって、本来の美点がいっそう高まる、ということになろう。


*1

主はカインに言われた。
「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」
カインは答えた。
「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」
主は言われた。
「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。
*2








主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことがないように、カインにしるしを付けられた。

カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。






創世記 4.9-16

*1:ギュスターヴ・ドレ(Gustave Doré、 1832 - 1883)の《The Death of Abel》

*2:イポリット・フランドラン(Jean Hippolyte Flandrin、1809 - 1864)の《Jeune homme nu assis》