まず、僕はフランス語がわからないので、以下のエントリーに誤記や勘違いなどがあるかもしれない。そのときはご教授ください。
で、仏アマゾンでゲイ関連の書籍(Livres Gay)を探していたら、日本でもお馴染みの──とりわけ英米文学における──作家がいろいろとフランス語に訳されていた。しかも……それらのカヴァーがどれも素晴らしく魅力的だった*1。
例えばエドマンド・ホワイト/Edmund White 。
Un jeune Américain | Un jeune Américain | La Tendresse sur la peau |
ある晩、わたしたちは映画館へ行って、アメリカの重量上げ選手が何人か出演している、フランス語に吹き替えられたイタリア製の冒険活劇映画を見た。野外ロケ用地の城を舞台に、ぴっちりとしたホットパンツ姿のお姫様と、邪悪な王子が登場するのだが、ハンサムな王子はやがて顔が溶けていき、その下に隠された悪魔の容貌をさらけだした。
彼のいけにえは(「ヒーローというのは全員マゾヒストと相場が決まっているんだよ」とポールはいった)まだその素晴らしい体に慣れていないといった体の、どことなくぎごちなさを感じさせるボディビルダーで、彼はむこうみずにも悪い王子に戦いを挑み、その結果として生きながら皮を剥がれなければならなかった。
ポールは手を叩いて喜び、特にどぎついシーンでは文字どおり自分自身の肉体をかき抱きさえした。これがトラクルの最後の詩に対するハイデッガーの解釈についてのデリダの見解を説明し、文学はすべてレトリックと文法とジャンルによってのみ検討されるべきだと主張し、シェイクスピアよりもロンサールの方が偉大な詩人だと(なぜならロンサールの情熱と論理、サチュロスと神の組み合わせこそは、ポールが英語の欠点であり同時に長所であるとみなしている、シェイクスピアの会話体のような流暢さに勝るものだからである)主張するのと同じ人物なのである。映画に野次を飛ばし、お上品な観客のために濃いスモークとフラッシュライトの焚かれるなかで悪漢がヒーローをなぶり殺していくシーンに喝采を送っているのも同じポールだった──確かにそれは筋肉隆々たる男たちが互いに傷つけあう映画だった。
エドマンド・ホワイト『生きながら皮を剥がれて』(柿沼瑛子 訳、早川書房) p.89-90
La tendresse sur la peau | La Symphonie des adieux | L'Homme marié |
機知、軽蔑、そしてロマンスのパロディは、ある意味ではロマンスを助ける方法となり得るのではないだろうか。シェーンベルクが彼の発明した十二音技法を厳然と遵守することによってのみ、ドイツロマン派音楽にさらに五十年の生命を与えることができると主張したように、ナボコフは『ロリータ』──ヨーロッパ人のニンフォマニアとガムをぱちんと鳴らし、洒落た警句を吐く、灰色の目をしてティーンエイジャーの魅惑的な娘との物語を、クラフト=エビング研究のもっとも極端な例にあてはめることによって、すなわちそのような極端な調整を行うことによってのみ、輝かしい、新たな活性を持つロマン主義小説をもたらすことができたのだと主張してもよかったかもしれない。
その活性は悪徳と芸術が共有する美徳、妄念によってもたらされる。アドルノが『ミニマ・モラリア』Minima Moralia で述べているとおり、「美の普遍性はある特定のものに対するオブセッション以外の方法で対象と通じあることはできない」のである。
恋人は芸術家と同じように一般性、曖昧さ、賢さを嫌悪し、愛するものの、あるいは輝かしい頁の、光輝く特異性にのみによって生きているのである。
エドマンド・ホワイト『燃える図書館』(柿沼瑛子 訳、河出書房新社) p.206
Ecorché vif | Ecorché vif | Les Etats du désir : Voyages en gay amérique |
このニ十世紀最高の恋愛小説『ロリータ』がそれ以前の恋愛小説のパロディだというなら、愛そのものも──あなたやわたしが実生活で体験する愛も──それ以前の恋愛小説のパロディなのであるといえないだろうか。オネーギンとタチアナ、ハンバートとシャーロット、あるいはあなたとわたしの間における愛の葛藤は、要するに異なる読者傾向がなせる業なのだということである。つまり愛における戦いは、実際には書物における戦いではなかったのかということなのだ。
だがたとえそのような主張をしたとしても、あるいはそれがナボコフの特質だと言い張ったとしても、わたしはロラン・バルトが『S/Z』で提案した文学や芸術に対するアプローチに──後に『恋愛のディスクール・断章』で否定されるものの──賛成するものである。バルザックの著作の詳細かつとらえがたく、濃密な、忍耐強い分析である『S/Z』において、バルトはブルジョワジーの文学とは文化的コードの絡みあったもの以外のなにものでもないのではないかと提唱した。
現実の幻想を与え、読者に「愛」とそのすべての儀式(宣言、逢引き、幸せへの障害、誓い、発見、破壊)を、「愛」とは自然な何かであり、文化的なものではないということを信じさせるためのめくらましとして、作家たちは(作家は自分がしているこどをほとんど意識していないので、作家を通じてという言い方もできるかもしれない)さまざまな戦略を用いてきた。
エドマンド・ホワイト『燃える図書館』 p.213-214
ホワイト作品が新たに訳されるときや文庫化されるときには是非ともこういった仏版カヴァーを参考にしていただきたい、と思う。
[Edmund White Official website]
そして、このエドマンド・ホワイトを仏訳しているジル・バルブデット(Gilles Barbedette、1956 - 1992)について関心を抱いた。
Nocturnes pour le roi de Naples (Poche)
de Edmund White (Auteur), Gilles Barbedette (Traduction)
[Gilles Barbedette]
- http://fr.wikipedia.org/wiki/Gilles_Barbedette
- http://www.france.qrd.org/sante/remaides/REM23/FR23/p44n23.html
- http://www.imec-archives.com/fonds/fiche.php?ind=BRB
といっても最初に書いたように、僕はフランス語が読めないしフランス文学にも疎いので、『ユリイカ』のゲイ・カルチュア特集に掲載されていた堀江敏幸氏のテキストを参照したい──とりわけ「情報として」(というのもフランスの同性愛関連の書物の翻訳・紹介は英米のそれと比べ圧倒的に少なく、また、英米文学における柿沼瑛子氏のような存在も見当たらないので。それと『ミシェル・フーコー思考集成10』及び『フーコー・コレクション 5 性・真理』に掲載されているH・ドレイファスとP・ラビノウとの対話「倫理の系譜学について 進行中の作業の概要」で「G・バルブデット訳」とあるのも気になる。とりわけフーコーとの交遊において)
ジル・バルブデットは1956年に生まれ、1992年にエイズで亡くなった(彼の長年にパートナーであるジャンは1986年に亡くなっている)。堀江氏によれば、バルブデットは、海外文学紹介と英米ミステリーの翻訳に力を入れていたエディシオン・リヴァージェで英米文学の紹介、未訳作品の発掘、さらに自ら仏訳を行っていた。例えば、ポール・ボウルズ、トルーマン・カポーティ、ヘンリー・ジェイムズ、デヴィッド・ロッジ、ガートルード・スタイン、スティーヴン・ミルハウザー、ウラジーミル・ナボコフ、夏目漱石、ウンベルト・サバ、イタロ・カルヴィーノ、イタロ・ズヴェーヴォ、クリストファー・イシャウッドらの仏訳はバルブデッドが担当した叢書に収められた。
「アメリカ英語の専門家、翻訳家、出版社文学顧問にならないなんて、とても耐えられなかっただろう」(『年老いた若者の回想』)と書きつけるほどに、深く英米文学とつきあっていたバルヴィデットにとって、英語は母国語以上の滋養であり、同時に正当に肩の力を抜くことのできる発話手段だった。「TLSに英語で書くことは、ぼくにとって、最終的には同種の記事をフランス語で書くよりも容易で自然なものだった。英語とはじつに単純で、滑稽で、ふざけ好きで、絶望的な言語だ。それはあまりに保守的で、不動の社会の言語であるがゆえに、人生が自分から奪い取ってしまう熱や無媒介的な生真面目さを、皮肉のうちに補っているのである」
(中略)
彼にとって翻訳は単なる職業でも趣味でもなく、創作活動と密接な繋がりを有する営為だった。実際、翻訳の対象に選ばれた作品からは、いずれもバルブデットその人の声の変奏を聴き取ることができ、なかでも同性の恋人との生活、老い、そして死について淡々と綴られたクリストファー・イシャウッドの日記『十月』などは、仏訳刊行(1984)の二年後に同居人を失い、やがては自分も同じ病に翻弄されて「老い」を迎える訳者自身の未来を先取りしているし、エドマンド・ホワイトを取り上げたのも、彼自身の性向と無関係ではなさそうだ。バルブデットの選択肢に同性愛的な匂いを嗅ぎ取ったとしても、行き過ぎた解釈にはならないなずである。
とりわけバルブデットに切実な影響を与えたのが「類稀な言語の使い手」ナボコフだ。それは作家と読者(翻訳者)といった次元にとどまらず、実際、ヴェラ・ナボコフの死後、バルブデットは「文学的遺言執行人」となり『魅惑者』を翻訳紹介、エドマンド・ウィルソンとの往復書簡の仏訳刊行に尽力、『絶望』の改訳にも乗り出した。さらには彼の著作『嘘への招待 小説に関するエッセイ』(1989年)の最終章が「オスカー・ワイルドからナボコフへ」と題されていた。
「ひとつの確信。十二月はぼくにとって逆説と混乱の月だ」(『年老いた若者の回想』)。ほぼ十年周期でバルブデットの人生に区切りをつけにやってくるのが十二月だった。1964年12月6日、二年の闘病生活の後、母親が死亡、1975年12月25日の夜、リスボンのとあるペンションにおけるジャンとの初夜。1986年、約三年の闘病生活の末、ジャンが死去、愛人がエイズで倒れたとき、先立たれた共同生活者の方もまた、自身が同じ病気で死ぬことをすでに承知していた。
三十二歳で晩年を意識し、愛する者が欠落した現実を、文学の《嘘》に仮託して乗り切ろうとする心の動きが、それらの断章から伝わってくる。ペール・ラシューズへ墓参りし、ヴァヌーシュカという名の遺児ならぬ遺猫にジャンの生まれ変わりと慰籍を見いだし、またジャンの母親と付き合う、いたるところに愛人の姿を追い求めては悲嘆に暮れる現実を、書くことで忍んでゆく。
(中略)
また、渾身の力をこめて描かれた『バルチモール』(1991)においても、作者は亡き恋人の影から完全に切り離されていない。ナボコフの『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』を念頭に置いたのではないかと思われるこの作品の主人公は、サミュエル・ジョンソンの英語辞典の翻訳を企てている碩学、バルチモールことレイモン・オプレで、彼はサン・マロでの幼年時代をはじめ、作者自身の自伝的要素をふんだんに用いて創造された人物なのだが、若い弟子ウィリアムとの恋愛に似た師弟関係に、やはりジャンの幻影が入り込んでいる。バルチモールの気持ちを引きつけておいて、不意に姿を消し、その不在を突きつけて静かに煩悶させる教え子ウィリアムが、じつは闘病のために入院していたと物語の末尾で知れるや、小説はバルチモールなる架空の人物の生涯を追う絵空事から、ジャンへの鎮魂を秘めた限りなく透明な愛の告白へと一挙に変貌してしまう。
「狷介なる受容──ジル・バルブデット」