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『ピアノを弾く身体』〜ヴィルトゥオーソのパフォーマンス




ピアノを弾く身体

ピアノを弾く身体

柴田南雄は、歴史的背景を踏まえつつ、リストの《超絶技巧練習曲集》(Etudes d'execution transcendante)の「超絶」(transcendante)を哲学用語の「超越」(transcendance)として捉え、エマーソンの「超越主義」やカントの「超越」を結びつけている。一方、吉田秀和氏は、この言葉をもっと素朴に捉えて「『だんだん演奏が難しくなってくる練習曲』という意味ではないだろうか」と述べている。この二つの解釈は、そのいずれが歴史的に正しいかということとは別の水準で、超絶技巧が二つの顔を持つことをよく表している。




近藤秀樹「超絶技巧の二つの顔」p.219


演奏論……だけではない。この『ピアノを弾く身体』のモットーは、「ピアノを弾く手」は決して「作品を再現するための単なる透明な媒体」ではない──すなわち「自分自身の指で考えよう!」というものだ。そこから、音楽作品を、その「構造」や「内容」、「背景」、「原典版」などの知見=形而上学で把握し分析するのではなく、「技法」という具体的な身体的観点から論じる。
するとベートーヴェンピアノ曲──ピアノ協奏曲第一番のカデンツァやソナタ《ワルトシュタイン》には、オクターブのグリッサンドという「冒涜的な」実験がある──は、ドイツ正統の「新約聖書」であるだけではなく、リストに代表されるヴィルトゥオーゾたちの鍵盤上の「超絶技巧錯乱パフォーマンス」の源としての側面が浮びあがる。演奏技法から音楽作品を捉え直す。

面白い。とくに第三部の「ヴィルトゥオーソのパフォーマンス」。ここで指摘される「教訓」は、単純明快であり、それゆえ説得力がある。つまり、

「難しいパッセージを楽々と弾いてしまっては難しく聴こえず、ひいては音楽的感興をそぐことになりかねない」。難しいパッセージは、いかにも難しそうに弾いてこそ、聴き手を圧倒することができるのだ。




岡田暁生「音楽の演出法」p.191


そして岡田氏は、ホロヴィッツの悪名高い、しかし最大のヒット曲であるスーザの《星条旗よ永遠なれ》のアレンジを分析する。問題となるのは、それを「どのような視点」で評価するか、ということである。ヴィルトゥオーソ音楽は、ラヴェルの《夜のギャスパール》やアルベニスの《イベリア》、バルトークの《戸外にて》などの、ありとあらゆる技巧が錬金術のように溶かしあわされた「超難曲」とは決定的に違う。

そこでは、「オクターブ」「重音」「手の交差」といった具体的に、難技巧をパターン化することができる。しかもこうした諸技巧は、複合的(同時的)に使われるのではなく、原則として順々に現れる。「定型的な」難技が、「次々に」繰り出されるのである。
この意味でヴィルトゥオーソ音楽の構成は、フィギュア・スケートの自由演技とよく似ていると言えるかもしれない。「自由」とは言っても、そこには必ずどこかに配置しておかなければならない、決められた「定型的難技」というものが存在する。この場合の「自由」とは、「配置」の自由だ。決まった「課題」を、「自由に」、しかし最大限に効果的に並べて、自分をアピールするのである。そこに一つくらい、観客が予期もしなかったような、そして彼らを驚倒させるような「新手の技」が入っていれば万全である。
ヴィルトゥオーゾ音楽の構成は、「技術の展示術の妙技」といった視点からなされなければならない。それ自体はすでによく知られている定番の技術披露(重音、オクターブ、アルペッジョ等)が、いかに効果的にアレンジされ配置されているかという視点から分析されなければならないのである。




岡田暁生ホロヴィッツ編曲《星条旗よ永遠なれ》をどう分析するか」p.274-275