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猫たちの聖夜

猫たちの聖夜 (ハヤカワ文庫NV)

猫たちの聖夜 (ハヤカワ文庫NV)

ある生き物がある大きさの体に達し、ある量の脳をもち、ある自意識を所有したとたんに、ほかの生き物に何をしでかそうとするか。それを考えると、僕は目に涙するべきだったかもしれない。犠牲者だけでなく殺し屋のことをも思って、悲しむべきだったのかもしれない。だって、どこまで行ってもこの世に希望はなく、そこに生きるものたちには欠陥があることを、この事件ではっきりと見せつけられたのだから。




アキフ・ピリンチ『猫たちの聖夜』(池田香代子訳、ハヤカワ文庫)p.169

と、省察するのはアキフ・ピリンチ『猫たちの聖夜』の語り手、牡猫のフランシスだ。猫たちの世界で「猫殺し」が発生する。主人公──いや、主猫公フランシスは、殺された「仲間」のために「犯人」を追う探偵である。構成としては通常の推理小説とまったく変わりはない──猫目線で人間が描かれるのを除けば。

その猫目線が、いい。いろいろと考えさせてくれる。例えば、

『神は野の獣をその種類にしたがい、家畜をその種類にしたがい、また地を這うすべての物をその種類にしたがって造られた。神はこれを見て、よしとされた』そう言った神は、わしらではなく別の動物の神なのだ。その特別な動物がどんなものか、知っているかね、フランシス? つまりだ、彼らについて、一度でもまじめに考えたことがあるかね? 知っているかね、彼らの頭の中でいったい何が起こっていて、彼らにはいったい何ができるのか? 人間にはいったいほかに何ができるのだ、あんな恐ろしいことをするのでないとしたら? 
それをまた批判するのが、いわゆるよい人間とやらでな。いやいや、きみはきっとこう思っているだろう、人間は二つに分けられる、よい人間と悪い人間に、とな。原爆を作って戦争をはじめる連中と、太平洋の捕鯨に反対したり、飢えた者たちに施しをする連中に。人間の頭をのぞいたことはないのに、人間の脳には二種類あると思っているのだな、フランシス。なんにも知らない、きみはなんにも知らないんだよ……きみに人間と動物の話をしてあげよう、探偵物語じゃない、真実の物語だ……





p.307

これは「犯人」とフランシスとの対決の部分なのだが、すでに「探偵物語」それ自体が「メタ物語」になっているのが興味深い。そして「真実の物語」が、このフィクションで俎上に挙げられる。もちろん「物語」が「真実の出来事」なのか、という疑問もわく。
一つだけ事実を記しておくと、作者アキフ・ピリンチはトルコ系の人物でドイツに住んでいる、ということだ。


牡猫フランシスは、ユダヤ系の作曲家マーラーの『復活』を特別気に入っている。そして時折、「フレーメン」をする。

不当に謙遜するまでもなく、二十億からなるぼくの嗅覚細胞は、同類の中でも鋭さにかけては天下一品だ。なのにそのぼくにさえ、ほとんど感じるか感じないかのこの臭いを分析するのは並大抵でなかった。どんなに鼻を湿らせてみても、この一風変わった分子の正体は不明だ。そこでなじみのJ器官に助言を乞うことにして、できるかぎり集中してフレーメンした。




p.15


フレーメンとは何か。作者は「注」で次のように説明する。

人間と違って、猫をはじめ、鹿や馬などの数種の動物には嗅覚と味覚の中間に第三の科学的な感覚がある。それが、発見者にちなんでヤコブソン器官と呼ばれる独自の感覚器官によって、特定の刺激(臭いのある分子)を感じとるJ感覚である。このごく小さな器官は、上顎から分岐した細い管にあり、煙草型のような外見を持つ。動物は空中から当該の物質を”舐め”取り、それを舌で上顎に押しつけて、受容体を刺激する。猫はこの動作のとき”フレーメン”と呼ばれる特徴的な表情になるが、人間にはこれがひどいバカ面に見える。




原注 p.333

アキフ・ピリンチの「猫の世界で起きる虐殺事件を、猫の名探偵が解決する」作品はシリーズ化されている。第2作『猫たちの森』は、法月綸太郎の書評が「e−NOVELS」で読める。

作者ピリンチは、トルコ生まれのドイツ作家。前作同様、博覧強記で軽妙洒脱な猫の一人称を借り、ショーペンハウアー箴言をちりばめながら、ホモ・サピエンスの高慢と愚かしさに痛烈な毒舌を浴びせていく。環境破壊に伴う、野生動物の危機的状況が主題に据えられているが、ストーリーはあくまでも猫たちの世界が主であり、人間の活動は従にすぎない。しかし、寓話性の強かった前作に比べると、設定のもたらすコントラストがより鮮明になっている。

猫たちの森 (Hayakawa novels)

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