『論座』(2006年1月号)の宮崎哲弥&川端幹人「中吊り倶楽部」における、宮崎氏の現代思想の「キャッチー」な流用が面白い。思想なんて「使われてナンボ!」、「思想は役立ってナンボ!」*1だと改めて感じた。
二人の「週刊誌時評」で俎上に挙げられるのは、まず、三浦展の『下流社会』。宮崎哲弥氏は、『下流社会』を読んでエドガー・ライト監督の『ショーン・オブ・ザ・デッド』というイギリスのゾンビ映画を思い出したという。
何の希望も、意欲もなく、自堕落な生活をしているイギリスの「下流社会」を描いた映画は、結局ゾンビになっても暮らしは変わらない、というオチがつく。
ねっ、アイロニカルでしょ。人間から生の輝きを奪い、ゾンビとして生かし続けるシステム、これがフーコーの言う「生権力」だよ! まあ三浦氏の本はそこまでいってないけど、とにかく小泉圧勝の裏にはそんな隠微な権力システムの稼動がみられる。
さらに週刊誌が「下流社会ブーム」にのって──本来ならそういう格差を生む社会構造や経済政策への批判をすべきなのに──大衆を脅迫して競争を煽っている、という川端氏の指摘を酌んで、宮崎氏は週刊誌こそ「下流社会」側に立たなければいけないメディアだと主張する。
俺なんか、11月号の「論壇時評」(東京新聞など)でそう書いたぜ。ネグリ=ハートを引きながら、「下流」こそグローバル資本主義に対抗するマルチチュードだ、ってね。
そして福田康夫氏が小泉内閣に入閣しなかったことを予測した理由は……
小泉首相の靖国参拝だよ。あれは郵政民営化と同じで踏み絵だったの、首相にとって敵か、味方かを直和的に分かつための。その結果、参拝に否定的な福田、山崎(拓)の両氏は排除され、もっとも強い賛意を示した阿部氏は、一気に官房長官に抜擢された。いわばカール・シュミットの「友・敵理論」をそのまま実践した人事ですよ。(笑い)
(中略)
いやいや、シュミットは「友・敵」関係こそが政治の本質だと喝破した。そういう意味では、これは紛う方なき政治です。
- 作者: 三浦展
- 出版社/メーカー: 光文社
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宮崎哲弥氏が「生権力(生かす権力)」について述べたテクストとしては、BOOKアサヒコムでのロバート・N・プロクター著『健康帝国ナチス』(草思社)の書評があった。現在は見られないが、キャッシュに残っている。
生かす権力、生権力というものがある。ミシェル・フーコーは近代的権力の新しい性質、作用をそう名付けた。だが、生権力は、死なせる権力、殺す権力に比べて、どうも直感的に把握し難いところがある。然(しか)るに、本書が描き出す「健康帝国」の前景の奥には「生命に対して積極的に働きかける権力、生命を経営・管理し、増大させ、増殖させ、生命に対して厳密な管理統制と全体的な調整とを及ぼそうと企てる権力」(『性の歴史1 知への意志』)の像がくっきり浮かび上がっている。
著者はナチス医学に積極的な側面があることから目を背けるべきではないと繰り返し強調する。公衆衛生や予防医学の分野だけではなく、自然保護や動物愛護においても、ナチスは時代に先駆けていた。その点をはっきりと認めよう。ナチスの罪を減じるためではもちろんない。「奴(やつ)ら」と私たちとを隔てる壁はそれほど高くない、むしろ気味の悪い共通点が少なくないことを忘れないために、だ。
- 作者: ロバート・N.プロクター,Robert N. Proctor,宮崎尊
- 出版社/メーカー: 草思社
- 発売日: 2003/09
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[ショーン・オブ・ザ・デッド関連]
主人公は、イイ年して大人になりきれないショーン。電器屋で働いていますがヤル気はゼロで、幼なじみのエドとパブに入り浸ってクダを巻く毎日。とうとう恋人のリズにも愛想を尽かされ、落ち込んだショーンは浴びるように酒を飲んでしまいます。二日酔いで目覚めた翌朝、なんとゾンビが大発生。ショーンは、愛する恋人、家族、友人を守るため、クリケット・ラケットを手に立ち上がります。
- ショーン・オブ・ザ・デッド [Wikepedia ja]
- Shaun of the Dead [Wikipedia en]
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[優性思想関連エントリー]
バトラーは問う。誰が生きるに値し、誰が値しないと思われるのか。境界はどのように引かれ、それを決定している考え方はどのようなものか。境界を維持するため、どんな社会的装置が使われているか。
「それらを考え、生の可能性を広げる必要がある。これまで推しつけられてきた規範的な人間の生ではなく、もっと広い生の可能性です。それはアフガニスタンやイラクでの戦争で誰が生きるに値すると思われ、誰が思われないかという問題にも波及し、1945年の広島にも通じます。戦争反対の根拠は、生の序列化という意味においても考えなければならない」