HODGE'S PARROT

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J.S.バッハ 《パッサカリアとフーガ》



またまた YouTube 上における優れたオルガニストを発見した! 
その名は Balint Karosi 氏。詳しいことはわからないが、ボストンにあるルーテル教会のオルガンを弾いているようだ。曲はヨハン・ゼバスティアン・バッハの《パッサカリアとフーガ ハ短調 BWV582》──もちろん僕の大好きな作品だ。グッときたぜ!

Passacaglia in C Minor

Passacaglia in C Minor-Fugue

ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版 バッハの音楽のレコードとジョン・ケージの音楽のレコードとを宇宙空間に送り出したさいの違いを、もう一度とりあげてみよう。後者は式を捨てて由度を無限に高めた音楽であり、前者は群のーモニーによる非周期的結晶にも比すべき音楽である。さて、ケージの作品はわれわれ自身にとってどんな意味をもつのか、考えてみる。


ケージの曲は、大きな文化的状況設定の中で受けとめなければならない。つまり、ある種の伝統への反逆として。そこで、その意味を伝えようと欲するならば、その曲の音だけではなく、それに先だって西洋文化の広汎な歴史をも伝達しておかなければならない。だから、ジョン・ケージの音楽のレコードは、ただそれだけでは固有の意味をもたないと述べるのだが妥当であろう。
しかし、西洋および東洋の文化、とりわけ最近数十年の西洋音楽の流れに通暁している聴き手にとっては、それは意味をもっている──だが、このような聴き手はジュークボックスに似ており、曲は一対の押しボタンに似ている。意味の大部分はまず聴き手の内部に含まれている。音楽はただ引き金の役をする。この「ジュークボックス」は、純粋な知能とは違ってちっとも普遍的ではない。すっかり地球にしばりつけられており、それまでに長い期間にわたって全世界で起きた出来事という特異的な系列に依存している。


(中略)


他方、バッハの音楽を鑑賞するには文化的知識ははるかに少なくてすむ。バッハの音楽ははるかに複雑でよく組織されており、ケージの音楽は知性をあれほど欠いているのだから、これはかなり反語のように聞える。
しかし、ここには奇妙な逆転がある。知能はパタンを愛し、乱雑を避ける。多くの人々にとっては、ケージの音楽の乱雑性のほうがいっそう説明を要する。説明を聞いても、メッセージが欠けていると感じるかもしれない──これに対して、バッハには言葉は余分である。その意味では、バッハの音楽はケージの音楽にくらべてはるかに自己完結的である。
しかし、バッハの音楽への理解が人間という条件をどれだけ前提しているかは、依然明らかではない。




ダグラス・R.ホフスタッター『ゲーデルエッシャー、バッハ―あるいは不思議の環』(野崎昭弘、柳瀬尚紀、はやしはじめ 訳、白揚社)p.187


Passacaglia and Fugue in C minor, BWV 582 [Wikipedia]

ある対象にはフレーム・メッセージが認められ、他の対象には認められないのは何によるものか? 宇宙を遍歴するレコードを途中で捕らえた異星文明が、その中にメッセージが潜んでいると気づくはずだというのはなぜなのか? レコードと隕石はいったいどこが違うのか?


「何か変だな」という最初の手掛かりは、明らかにその幾何学的形状にある。次の手掛かりはもっと微視的な尺度にあって、らせん状に配置された非常に長い非周期的なパタン系列をその物体がもつことである。らせんを解きほぐすと、草書体で書かれた記号の長大な(700メートルに及ぶ)線状の系列が得られる。これは四つの塩基という貧弱な「アルファベット」で書かれた記号が一次元の系列として配列され、ついでらせん状に巻かれるDNA分子とそれほど変わりはない。エーブリーが遺伝子とDNAの関連を確立するに先立ち、物理学者エルヴィン・シュレーディンガーは純粋な理論上の根拠に基づいて、遺伝情報は「非周期的結晶」の中に貯えられているにちがいないことを、大きな影響を及ぼしたその著書『生命とは何か』の中で予測した。







ゲーデルエッシャー、バッハ』 p.180


Passacaglia and Fugue in C minor, BWV 582 [Wikipedia]

事物、書物それ自体も、きちんとした幾何学的形態の中に封じ込められた非周期的結晶にほかならない。きわめて規則的な幾何学的構造の中に「包装」された非周期的結晶が見つかれば、そこには内部メッセージが潜んでいるかもしれないことを、これらの例は示唆している。





ゲーデルエッシャー、バッハ』 p.180


以下はレオポルド・ストコフスキー編曲&指揮によるオーケストラ版 BWV582 のフーガ部分。銀河系の彼方まで、この「メッセージ」を送信したい。
STOKOWSKI conducts Passacaglia and Fugue 3/4 - Fugue

サン=サーンスのレクイエム&詩編



サン=サーンス:レクイエム

サン=サーンス:レクイエム

カミーユ・サン=サーンス/Camille Saint-Saëns の膨大な作品の中で、宗教音楽は意外なほど少なく、また、それらが演奏・録音される機会も、そう多くはない。しかしこの《レクイエム/Requiem》Op.54 と《詩編/Psaume XVIII》Op.42 は、非常に美しく魅力的な作品である。
Saint-Saens: Messe de Requiem . Partsongs 暗く、神秘的な《Kyrie》から、まるでベルリオーズの《幻想交響曲》を聴いているかのような、あのグレゴリア聖歌の旋律が登場する《Dies Irae》、《Oro Supplex》の悲劇性、《Benedictus》のまさに天上的な心地よい音響、そして「死者のためのミサ」を締めくくる最後の《Agnus》──この《Agnus》の美しさは、ちょっと筆舌に尽くしがたい、非常な感動を覚えさせてくれる。

神羊誦 (Agnus Dei)



この世の罪を取り除く神の小羊よ
彼らに安息をお与えください
この世の罪を取り除く神の小羊よ
彼らに安息をお与えください
この世の罪を取り除く神の小羊よ
彼らに永久の安息をお与えください





レクイエム [ウィキペディアより]

ただし、相良憲昭音楽史の中のミサ曲』(音楽之友社)によれば、この《レクイエム》は、サン=サーンスの友人であった郵政大臣アルベール・リボンの十万フランの遺贈と引き換えに──そしてそれにより作曲者がマドレーヌ教会におけるオルガン演奏活動から解放され、作曲に専念できるようになるべく──依頼されたものであるという。しかもサン=サーンスはこの「感動的な音楽」をわずか一週間で作曲している。

サン=サーンスは、オペラであれ、交響曲であれ、室内楽であれ、そして宗教曲であれ、まさに最上の職人技を発揮できる「芸術家」だと思う。《詩編》も華やかな色彩と覚えやすいメロディ、フーガなどの技法をちりばめた見事な作品で、そこには堂々たる神の賛歌以外の何ものも聴こえない。もっとも、やはり『音楽史の中のミサ曲』を参照すれば、サン=サーンスは、「宗教の意味は認めるが自分は確固たる無神論者だ」と告白したそうだが。
それでもなお……

天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。





知らずに犯した過ち、隠れた罪から
どうかわたしを清めてください。
あなたの僕を驕りから引き離し
支配されないようにしてください。






詩編 第19 より(新共同訳『聖書』)

罪なき血



font-da さんの 「ポルノグラフィとイデオロギー - キリンが逆立ちしたピアス」を読んだ。僕が普段から考え、悩まされてきた問題についての示唆がそこにあるように思い、少し整理しておきたくなった。それは、言うまでもなく、同性愛表現が描かれてありながら、そこに同時に、同性愛嫌悪表現が/も描かれている「やおい」についてである。


まず確認しておきたい。

  • 異性愛)男性向けポルノにおいて「男性が女性をレイプする」

この場合、レイプが<悪>であるならば、「異性愛/関係」を「穢している」主体は、いったい何者なのか。

  • 異性愛)女性向け「やおい」において「男性が男性をレイプする」

この場合、同様に、「同性愛/関係」(男性同性愛)を「貶めている」主体は、いったい何者なのか。

しかしながら、この例は、同列に扱えないだろう。なぜならば、「異性愛」「異性関係」を「貶める」ことはいったいどのようにして可能なのか──表象の暴力は、異性愛と同性愛といった権力関係の中に必ず横たわっているはずだ。



この問題と関連して、僕は以前、次のエントリーを書いたことがある。


そしてこれを書いたときも漠然と感じていたのだが、最近とくに思うことがある。それは一部の「やおい論」において、その中に、ときおり、「歴史修正主義」的な言説と似通ったものが見られることだ。それが非常に気になる。「女のためのホモエロティシズム云々」と謳いながら、男性同士の物語=「やおい」ばかりに拘泥する批評も、その「ヘテロセクシズム」がかなりウザイのだが、それとは別の次元である。それは……
……「性的搾取」の主体ではありえない──国家や軍は主体的に行動しなかった/できなかった……そして「性暴力」を告発する人々の「地位」を攻撃し、相対化し、「どっちもどっち」という印象を与える……。


このような言説に注意を向けることは必要であろう。