HODGE'S PARROT

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ヘンツェ≪ナターシャ・ウンゲホイエルの家へのけわしい道のり≫




ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ(Hans Werner Henze、1926年生まれ)の≪ナターシャ・ウンゲホイエルの家へのけわしい道のり≫ は、実に興味深い作品である。いろいろな意味で「問題作」であるこの楽曲のCDは、先頃タワーレコードから国内盤として復刻した。まだ在庫があるようなので、ヘンツェや現代音楽に関心がある人は、手に入れておいて損はないだろう。何といっても1000円という廉価なのだから。しかも片山杜秀氏による『革命に憑かれたブルジョワ、または複雑化した《月に憑かれたピエロ》』という読み応えのあるテクスト付きだ。

演奏は、ウィリアム・ピアソン(バリトン)、ファイアーズ・オブ・ロンドン(ピアノ四重奏)、フィリップ・ジョーンズ・ブラス五重奏団、グンター・ハンペル・フリー・ジャズ・アンサンブル、ジョゼッペ・アゴスティーニハモンド・オルガン)、ツトム・ヤマシタ(打楽器)。


≪ナターシャ・ウンゲホイエルの家へのけわしい道のり≫(Der langwierige Weg in die Wohnung der Natascha Ungeheuer、1971)は以下の11の部分から構成される。

  • 面積測定
  • 嫌がらせ
  • ベールを被った使者たち
  • 元気のない監視
  • 難しいブルジョワジーへの案内
  • 難しいブルジョワジー:後戻りへの一度目の試み
  • 後戻りへの二度目の試み
  • 後戻りへの三度目の試み─ドイツの歌
  • 測地学
  • スピーチの練習
  • メタペンテス


1971年作曲ということは、あのライブ・エレクトロニクスを導入したヴァイオリン協奏曲第二番──個人的にとても気に入っている──と同じ時期の作品だ。この≪ナターシャ≫でも、電子音がマーラー交響曲第5番の「引用」とコラージュされるなど、巧妙に印象的に使用される。
ヴァイオリン協奏曲は、ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガー/Hans Magnus Enzensberger の『ゲーデルへのオマージュ』(Hommage à Gödel)というテクストを読み上げる声に電気的変換を施したテープが使用される。一方、≪ナターシャ≫の方は、ガストン・サルバトーレの詩がバリトン歌手によって「歌われ」る、オペラ的な作風。もちろん政治的メッセージは濃厚である。

というより、テクストだけではなく、編成それ自体が政治的、なのである。片山氏の解説に書いてあるが(以下もその解説を参照している)、まずバリトン歌手に取り巻く、シェーンベルクの≪月に憑かれたピエロ≫と同編成のグループ。もちろんシュプレッヒゲザング──歌うように語り、語るように歌う──を採用した「現代音楽風の」、≪ピエロ≫の女声を男声に置き換えたような歌唱。これは表現主義的、すなわちブルジョワの不安を表してしているものだ。
次のグループは、金管五重奏。軍楽風であり、これは資本主義的な強圧的権力を代表している。
三つ目は、ジャズ・クインテット。「ブルジョワクラシック音楽」に対峙している「民衆的な」(ポピュラー音楽としての)ジャズ。このジャズが、「ナターシャ・ウンゲホイエルの家」への道筋をバリトン歌手に案内する。
つまり不安を抱えたブルジョワシェーンベルク風無調音楽)が、資本主義的な高圧的権力(金管五重奏による軍楽隊)に曝されながらも、民衆の音楽(ジャズ)によって、真の道(ナターシャの家)へ辿りつく、というもの……
……そんな甘いわけがない

実は、このジャズこそが「民衆・大衆のため」を装った「偽りの革命思想」への誘惑なのである。
片山氏はこれを「虚偽意識的ジャズ」と形容している。スピーカーを通して呼び掛けるナターシャの声。

彼女(=ナターシャ)の説く偽りの革命思想とは、ブルジョワはただ革命の理想を思想の問題として支持しさえすれば、実際にブルジョワの立場を捨て、階級闘争・暴力革命に参加ぜずとも、プロレタリアの側に立ったことになるというものだ。それで許されるなら、ブルジョワとしては、完全な自己否定や財産放棄をせずに済むのだから、有り難いかぎりである。しかし、そんな都合のいい革命なんて、やっぱりない。よって男声歌手はナターシャの誘惑を拒否することになる。




片山杜秀『革命に憑かれたブルジョワ、または複雑化した《月に憑かれたピエロ》』より


そのとき、ブルジョワバリトン歌手に寄り添う楽器は、ハーモニカである。そこには、煌びやかな音響も、威勢の良いファンファーレも、マイルドな「大衆音楽」も、ない。そして打楽器による強烈な「騒音・喧騒」だけが彼を「革命戦士」へと変身・再生させるのである。

わたしは自分に未来がないことを
知っている
電話で自慰をしても
刺激が得られなくなった。




「難しいブルジョワジーへの案内」より

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讃歌を詠むな、時刻表を読め。時刻表のほうが正確だ。




Hans Magnus Enzensberger


ヘンツェ:刑務所の歌

ヘンツェ:刑務所の歌

オレ様の政治的文書

イギリス人が「Jacues Derrida」を声に出して読むと「ジャック・ドゥリーダ」のように聴こえる。スクリッティ・ポリッティSCRITTI POLITTI のアルバム『Songs to Remember』の中の≪Jacques Derrida≫というナンバーにて。

ソングス・トゥ・リメンバー

ソングス・トゥ・リメンバー


この曲で、ヴォーカルのグリーン・ガートサイドは、”I'm in love with a Jacques Derridaというセンテンスを二回言い放つ。そして、

Read a page and know what I need to
Take apart my baby's heart

と、「読むこと」(read)を促す……なだらかなメロディラインにそって、あの独特のファルセット(falsetto、裏声=偽りの声)によって。しかも「take apart」って、辞書を参照すると、「徹底的に調べる、分析する」という意味と「バラバラにする、解体する」という意味があるんだな、って、今さらながら感心した次第。しかも最後は”I wanna eat your nation state”だもんな。


また、≪Lions After Slumber≫というナンバーも面白い。”My diplomacy, my security, my hope……my uncertainty, my penetration, my function, my paper, my distance, my death……”とひたすら「My + ○○」と「オレ様の何々」を言い放っていく、それだけのリリック。でも最後のセンテンスは謎めいた、意味を取り難いものになっている。

Like lions after slumber in unvanquishable number

立ち位置がよくわからないポップグループだ


だけれども、Wikipedia を参照すると、「Scritti Politti」というネームは、イタリアのマルクス主義者アントリオ・グラムシへのオマージュなのだという。ちょっぴり「可愛い発音」になるべく、わざとスペルミスをしているけどね。

The name Scritti Politti was chosen as a homage to the Italian Marxist theorist Antonio Gramsci: The name is generally understood to refer to Gramsci's political writings (although the correct spelling of this from the Italian would have produced "Scritti Politici"). Green changed it to "Scritti Politti" as he thought it sounded more rock'n'roll, more like "Tutti Frutti".

Dilution of shareholder、Derrida S.A. の資本



先日、「天神茄子:フランス語の砂漠」さんのところで「デリダの遺稿はどこへ?」という記事を読んで、ジャック・デリダの「遺産」をめぐって訴訟騒ぎが起きていたことを知った。いかにもデリダらしからぬ/デリダらしい transaction ではないか、と検索してみたら、日本語でも報じられていた。


仏現代思想の大家、デリダ氏の「遺産」の行方は? 遺族と勤務大学がトラブル [イザ!]

デリダ氏は、1986年から2003年まで、カリフォルニア大アーバイン校で非常勤の講師を務めていた。90年には自筆の文書やメモなどの資料を同大に引き渡すことで合意していた。
 デリダ氏というネームバリューゆえか、受け入れに向けた大学側の態勢には力が入っていた。パリ郊外のデリダ氏宅にコピー機を運び込んだ上、フランス語ができる研究者を常駐させ、資料の分類にあたらせた。
 ところが、デリダ氏は次第に、カリフォルニア大に不信感を持つようになっていったらしい。04年、デリダ氏は契約の破棄を通告した。
 デリダ氏の死後、残されたものは大学と遺族の間での資料をめぐっての争いだった。交渉ではらちがあかないとみた大学側は、遺族を相手取り提訴したのだが、これが、デリダ氏を慕う世界中の研究者から総スカンを食らう結果になった。

とくにこの記事で興味を惹いたのが、遺族側の言い分で、カリフォルニアからデリダのドキュメントを取り返すのは「(カルフォルニアの)アーバインは世界の中心とはいえないから」というもの。本当にこんなことを「遺族側(遺産相続人)」が言ったのだろうか、とオリジナルの『ロサンゼルス・タイムズ』の記事で確認しようと思ったのだが、すでにこのアーカイブは参照できない状態だった。代わりに『サンフランシスコ・クロニクル』の記事を見つけた。この出来事の結構詳しい経緯(クロニクル)が載っていた。


UC Irvine drops suit over French philosopher's personal papers [SF Gate]

After Derrida's death, his widow and sons said they wanted copies of UCI's archives shared with the Institute of Contemporary Publishing Archives in France, Kamuf said.


"Irvine is not exactly the center of the world," Kamuf said, so the family requested duplicate archives to assure wider scholarly access to the philosopher's work.


Derrida's estate also sought changes in how UCI managed the papers, said Jackie Dooley, who heads the school's special collections and archives.


About a year ago, the family cut off negotiations, she said, so UCI sued in November, seeking $500,000 in damages and a court order requiring the family to transfer its stash of papers to California.


確かにデリダの家族(未亡人と息子たち)の友人で USC の比較文学のチェアウーマン、Peggy Kamuf氏が発言している。しかし、デリダのフォロワーで「比較文学」(comparative literature department)の人が、「中心」がどうのこうのと言って遺族を代表して訴訟騒ぎに口を挟むとは……。

UCI had spent more than $500,000 on the project, installing two copy machines at Derrida's house near Paris and hiring French-speaking graduate students to help catalog the documents, according to the lawsuit.

とあるようにアーバイン校は50万ドルの投資をデリダの了解のもと行ったようだ。ところが、

But in 2004, Derrida sent a letter to UCI's then-chancellor, Ralph Cicerone, threatening to withdraw permission for scholars to photocopy or quote material from the archives, a move that would have rendered the papers virtually useless, said Peggy Kamuf, a friend of the Derrida family and chairwoman of USC's comparative literature department.


Derrida was "quite unhappy with some things the University of California was doing," Kamuf said, adding that she couldn't discuss details except to say it didn't involve Derrida's own relationship with the university.

2004年、デリダは手紙(letter)をUCIの学長宛に送付した。手紙が届き、デリダがこのプロジェクト=事業を反故にするとの意向を示していたとの証言をしているのが、 Peggy Kamuf 氏である。彼女は、大学の行為がデリダをいかに悲しませたのか、その心中を語る。遺族を代表して、友人を代表して……亡くなったフランスの思想家の代わりに。

多分デリダのフォロワーたちも同様なのだろう。


ところで、なぜか複式簿記(Bookkeeping、Double-entry system)の基本図式を思い出した。すなわち、
資産(Assets)=負債(Liabilities)+資本(Capital
というやつだ。



[カリフォルニア大アーバイン校/University of California, Irvine]

1965年に、この土地の大部分の所有者であった、アーバインカンパニー(現大手不動産会社)により贈与された土地に設立された比較的若い総合大学である。

大学の規模としては、カリフォルニア大学内でロサンゼルス校、バークレー校、サンディエゴ校に続き、4番目の大きさである。2007年度のU.S.News誌のランキングによれば総合で全米44位、公立大学としては11位に位置している。米国内で10位以内に数えられる学科目は、文芸評論(2位)、犯罪学(4位)、行動神経学(5位)、散文(6位)、医療マネジメント(9位)である。



アーバイン校の校舎は、建築家であるウィリアム・ペレイラを筆頭に、ブルータリズム、モダニズムポストモダン、フューチャリズム等の概念に基づいて建造されており、映画『猿の惑星』、『ポルターガイスト』、『オーシャンズ11』等の撮影に起用された歴史も持っている。

学校のマスコットはアリクイであり、応援歌に"Anteaters Go!"、訳して『ゆけ!アリクイたち』がある。学校のモットーはラテン語で"Fiat Lux"、英訳で"Let There Be Light"(「そこに光あれ」の意)である。

Faculty members who have taught literary criticism and critical theory at UCI have included Jaques Derrida and Wolfgang Iser, and visiting professors in these fields have included Judith Butler, Slavoj Zizek, Giorgio Agamben, Barbara Johnson, Frederic Jameson, Elizabeth Grosz, and Étienne Balibar.

客員教授に、ジュディス・バトラースラヴォイ・ジジェク、ジョルジュ・アガンベン、バーバラ・ジョンソン、フレドリック・ジェイムソン……とかなりの面子を揃えてあるな。

それと南カリフォルニア大学(University of Southern California、USC)の ペギー・カムフ(Peggy Kamuf)さんであるが、デリダの入門書『A Derrida Reader: Between the Blinds』を著している他、『Specters Specters of Marx: The State of the Debt, the Work of Mourning And the New International(マルクスの亡霊たち──負債の国家、喪の作業、新しいインターナショナル)』の英訳者であるようだ。

A Derrida Reader: Between the Blinds

A Derrida Reader: Between the Blinds

Specters of Marx (Routledge Classics)

Specters of Marx (Routledge Classics)


[Peggy Kamuf]

ペギー・カムフがいうように、デリダは「境界なき思想家、あるいは、むしろ、世界地図をさまざまな国民国家へと分割する国境線でないのはもちろんのこと、大陸を分かつ自然の境界でさえなく、つねに〔それ自体が〕分割されうる境界についての思想家」である。




ニコラス・ロイル『ジャック・デリダ (シリーズ 現代思想ガイドブック)』(田崎英明 訳、青土社) p.39

ダルムシュタットの音価と強度のモードのポリティックス




現代音楽についてウェブでちょっと調べようとすると、多分ウィキペディアの『ダルムシュタット夏季現代音楽講習会』の解説に出くわすと思う。
だが、ここを見て──書いてある内容は別にして──不思議に思ったことはないだろうか。
そう。「他の言語」のところに英語版サイトへのリンクがないのだ。あるのは「Deutsch」と「Suomi」だけ……フランス語もない。
ウィキペディアには「ダルムシュタット夏季現代音楽講習会」の英語版解説は存在しないのか。そんなマイナーな音楽イベントだったのか、そこまで落ちぶれたのか。現代音楽のイメージが、ソプラノの絶叫や不安定なリズムだけ、で「語られる」ことによって、そのようなものだけであると「受けとめられ」、それによってアメリカ人に飽きられ、ひいては「インターナショナル」に無視される。そんなものなのかな、と思っていたのだが、実は英語版はあったのだ。日本語版からリンクがされていないだけで(英語版から日本語、フランス語へはリンクがある)。

During the late 1950s and early 1960s the school gained a certain infamy for a perceived lack of interest on the part of some of its zealot followers in any music not matching the uncompromisingly modern views of Pierre Boulez. This led to the use of the phrase 'Darmstadt School' as a pejorative term, implying a stale, juiceless, rule-based music.


Richard Taruskin believes that the Darmstadt New Music Summer Couses were started in order to maintain allied control over the intellectual elite in Germany at the end of World War II.


「講習会」の簡単な紹介の後に書かれてあるのが、ピエール・ブーレーズの「狂信的な」追随者(フォロワー)への強い口調の批判である。そして「ダルムシュタット・スクール」という言葉は軽蔑的に使用される、とある。

Many musicians, such as the composer Hans Werner Henze (whose music was regularly performed at Darmstadt in the 1950s) reacted against the 'Darmstadt School' ideologies, particularly the way in which (according to him) young composers were forced to either write in total dodecaphony or be ridiculed or ignored. In his autobiography, Henze recalls student composers rewriting their works on the train to Darmstadt in order to comply with Boulez's expectations (Henze 1998). One of the leading figures of the Darmstadt School itself, Franco Evangelisti, was also outspoken in his criticism of the dogmatic orthodoxy of certain zealot disciples, labelling them the 'Dodecaphonic police' (Fox 2006). Another member of the school, Konrad Boehmer, states

There never was, or has been anything like a 'serial doctrine', an iron law to which all who seek to enter that small chosen band of conspirators must of necessity submit. Nor am I, for one, familiar with one Ferienwoche schedule, let alone concert programme, which features seriality as the dominant doctrine of the early fifties. Besides, one might ask, what species of seriality is supposed to have reached such pre-eminence? It did, after all, vary from composer to composer and anyone with ears to hear with should still be able to deduce this from the compositions of that era. (Boehmer 1987, 45)

Almost from the outset, the phrase 'Darmstadt School' was used as a belittling term by commentators like Dr. Kurt Honolka (a 1962 article is quoted in Boehmer 1987, 43) to describe any music written in an uncompromising style.


ハンス・ヴェルナー・ヘンツェによる「イデオロギーと化したセリー主義」への批判が強烈である。ダルムシュタット・スクールでは12音技法(ドデカフォニー、トータル・セリエリズム)を強いられるか、馬鹿にされ無視されるかの二つに一つである……したがって若い作曲家=「生徒」は、ダルムシュタットのトレーニングにおいて、ブーレーズの気を惹くために「書き直し」をした、と。Franco Evangelisti なんかは「ドデカフォニー・ポリス(12音主義の警察)」とまで言う。
これはどういうことか……。
もっとも Konrad Boehmer による、ヘンツェが非難するような「セリー・ドクトリン(serial doctrine)」としての「鉄の法(iron law )」が、ダルムシュタットに敷かれていたわけではない、と弁護する文献が引用される。が、いずれにしても、「ダルムシュタット・スクール」は、軽蔑の意味で使われると記されている……と英語の、ということは「インターナショナルには」解されている、解されても仕方がない、ようだ。少なくともウィキペディアというインターネットの辞書内では。



[Internationales Musikinstitut Darmstadt (IMD)]

Piano Music of the Darmstadt School Vol.1

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  • 発売日: 2001/01/23
  • メディア: CD
Piano Music of the Darmstadt School 2

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ところで松平頼暁の『20・5世紀の音楽』には「政治への発言」という、音楽と政治の関係を扱った章がある。中でもルイジ・ノーノが「音楽と政治のかかわり方」について五つの視点を挙げていることが注目に値する。メルクマール/Merkmal として引用しておきたい。
が、その前に、ダルムシュタットの国際夏期新音楽講座について補足を。『20・5世紀の音楽』によると、ダルムシュタットの「現代音楽講習会」は1946年、ダルムシュタット市、ヘッセン州政府、そしてアメリカ軍の資金援助によってはじまった、ということだ。とくにアメリカ軍の援助というのがポイントだろう。
すなわち、ダルムシュタットには、ナチスドイツが「新音楽/Neue Musik」を「堕落した、頽廃」音楽として弾圧したことへの「対抗措置」という側面があるのだ。そして1948年からは、西ドイツ連邦政府や隣接する諸都市・州、国内外の放送局、ドイツ工業界が援助に加わったという*1。ここにおいて、政治的なベクトルは明確であった、と言えるだろう。


それでは、ノーノによる、音楽における「政治参加」の<視点>である。

その第一は、音楽と革命には何の関係もないという考えである。革命をやりたい時には銃をとり、音楽をやりたい時には客観的な音楽美学に従えばよい、という視点であって、ブーレーズのように≪121人宣言≫への署名と、アメリカ文化の代表的組織ニューヨーク・フィルハーモニーの指揮者就任との間に矛盾を感じない立場である。


第二の視点は、革命の遂行者は、もはや社会的機能を失った労働者・農民でなく、文化である、とする。アドルノ主義によって武装されたカーゲルの立場であって、進歩的・文化的なブルジョワジーへの適応の一つのタイプであるとされる。


第三のものはテクノロジー万能の立場で、高度に発達した資本主義社会のみで可能である。周辺は切り捨てられる。シュトックハウゼンがこれに属していて、ノーノはこれを「『帝国主義』ということばで正確に定義しよう」といっている。おそらくは、第三世界からの素材音をも用いるシュトックハウゼンの≪テレムジーク≫などは、周辺の尊重ではなく、そこからの搾取と考えられるのだろう。


第四の視点は、言語がブルジョワジーに由来する以上、芸術や文化はすべてブルジョワのものであり、真の文化は革命後までは存在しない、というものである。左翼的政治グループの考えで、これらの人々は結局は今まで通りの音楽をやりつづける、という。


そして最後は、ノーノ自身の立場で、文化を意識化、闘争、挑発、討論、参加の契機と規定するものだという。伝統的な楽器や語法を批判的に用い、西欧中心の貴族的文化を否定しようとする。たとえば、彼の≪輝く工場 La fabbrica illuminata(1964)≫や≪思考における弁証法的対位法 Contrappunto dialettico alla mente(1968)≫などのテープ音楽では、工場の騒音、市場の喧騒、非西欧的発声の声などが使われている。
ノーノの芸術上の発展は、イタリア共産党ヴェネチア支部の指導者でもある彼の政治的信条と切り離すことはできない。彼が孤立した美学的振舞いを拒否する背後には、個人の自己矛盾を終点とする社会制度の拒否がある。また、機械的な音列操作に対する不信の陰には、頑迷な非弁証法的発想への不信がある。




松平頼暁20・5世紀の音楽 (1984年)』(青土社) p.211-212

Nono;Voices of Protest

Nono;Voices of Protest

  • アーティスト:LUIGI NONO
  • 発売日: 2000/05/23
  • メディア: CD





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*1:なるほど、共産主義国家ソヴィエトからすれば「現代音楽/前衛音楽」は、米軍やドイツ財界の援助を受けた「ブルジョワ芸術」と看做すかもしれない。「ジダーノフ批判」(Zhdanov Doctrine)は1946年に開始され、1948年に公にされた