HODGE'S PARROT

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『小さな死』 La petite mort /1995/フランス 監督フランソワ・オゾン

主人公の青年は、男性(たぶん彼の恋人たちであろう)の射精の瞬間の顔をカメラに収めコレクションしている。写真は確かに男性のエクスタシーを「狩猟」したものであるが、しかしそれらは苦しみに顔を歪め死んでいった男たちのコレクションにも見える。写真家は対象を殺害する「権力」を有しているのかもしれない。
── エクスタシーと死……。

そんなふうに、ジョルジュ・バタイユなんかを引いて、オゾンによる「聖なる陰謀」を他人事のように語りたかった。しかしそれは敵わない。この作品はほとんど試練=経験になってしまったからだ。主人公に共感し、ほとんど同化してしまったからだ。これほど感情移入をさせられる作品は──たとえゲイ映画であっても──それほど多くはない。だから僕はオゾンが好きなのだ。

決してハンサムとは言えないが、主人公の目がとにかく印象的だ。何かしら細工を施したのかもしれない、あまりにも青すぎる青い目(だからその目をサングラスで覆うシーンはとても意味深だ)。この青い目の青年が、姉に連れられ余命幾ばくもない父親が入院している病院へ行く。

いかにも病院らしい白い建物。父親とは何年も会っていない。そこには父と息子の確執が横たわっている──しかも青年はゲイである。最初の再開は物の見事に失敗する。

次に青年が取った行動は、父親の病室に黙って侵入し、父親の写真を撮る──あるいは父親を「奪取」する、もっと言えば全裸の父親をカメラ越しに、カメラを武器(象徴的な男根だろうか、それともその形状からヴァギナだろうか)に「犯して」いるふうにも見える──ことだった(そういえばこの映画には「母親」は一切登場しない。父親を象徴的に犯すのは、フロイトのパロディか、アンチ・オイデプスか、オゾンの悪意に満ちた企みか)。

赤い暗室でフィルムを現像し焼く。ネガからポジへと変わる写真──父親のポートレート。ほぼ実物大の父親の顔の写真の目の部分を繰り抜き、青年はそこに自分の目を通す……すると彼は父親そっくりであった。そのことに気付いたためなのか、彼は恋人と猛烈にセックスをする。やがて姉から父親が死んだことを聞かされる。青年は尋ねる、父親が死んだのはいつだったのかと。

彼は同性愛者であるが、一人のフランスの息子であることに変わりはない。

あれから二十年たった今、私はあの時したことで、しないで置くか、或は別な具合にした方がよかったと思うものは、まずない。

イーヴリン・ウォー『ブライヅヘッド ふたたび』(吉田健一訳、ちくま文庫