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『リプリー』 The Talented Mr. Ripley /1999/アメリカ 監督アンソニー・ミンゲラ

IMDb のプロットキーワードを追っていくだけで、映画『リプリー』の内容はほとんど言い尽くされるだろう。例えば homoeroticism 、homosexual 、closeted-homosexual 、gay-interest と同性愛に関連したキーワードが四つもあることから、この映画において「同性愛」は重要なテーマになっていることがわかる。同様に「ジャズ」「ピアノ」「オペラ」「サクスフォーン」がある「音楽」もそう。さらにパトリシア・ハイスミス原作なのでミステリー/サスペンス/サイコパス映画であり、舞台になっている風光明媚なイタリアの映像も楽しめる。他に「nudity」や「bath」もあるが、さほど……邪な期待を煽るほどエロティックではない。やはり「同性愛」「音楽」「サスペンス」「風景」といった「テーマ」が注目され、それが見事に成功していると思う。実際、とても面白かった。

どうしても同じ原作により映画『太陽がいっぱい』との比較をしてしまうが──何しろ僕の一番好きな映画は『太陽がいっぱい』なのだ──両者は別物として、どちらも素晴らしい出来だと思う。もちろんアラン・ドロンの美貌には同じリプリー役のマット・デイモンは言うまでもなく(ヴェンダースアメリカの友人』のデニス・ホッパーはさらに言うまでもなく)、ジョード・ロウでさえも敵わないと個人的に思っている。僕はパトリシア・ハイスミスの大ファンではあるが、アラン・ドロンの美貌によって──あのセクシーな立居振る舞いによって、「原作を超えた」と表明することに躊躇しない。

まあそんなふうに『太陽がいっぱい』は「俳優至上主義」的に見てしまうのだが、『リプリー』の方はその「テーマ」において素晴らしい魅力を放っている。

まずは「同性愛」について。原作でも『太陽がいっぱい』でもそれらしく描いているが、どちらも50/60年代の作品なので、それほどあからさまではない。しかし『リプリー』では堂々とゲイテーマが謳われ、原作にはない登場人物ピーターとリプリーの関係が決定的になっている。

「音楽」は『太陽がいっぱい』のニーノ・ロータの甘美さはないものの、主人公リプリーが健気に弾くバッハの『イタリア協奏曲』、ディッキーのサクスフォーン、ジャズ、オペラ、ピーターの古楽と、音楽がそのままひとつの「モチーフ」と言っても良いほどだ。

リプリー』は『太陽がいっぱい』よりも原作により忠実であって、ハイスミスお得意「アイデンティティ・クライシス」が前面に出て「サスペンス」を盛り上げる。このことは野崎六助が『異常心理小説大全』(早川書房)においてマーガレット・ミラーの『狙った獣』、ビル・S・バリンジャー『歯と爪』といった作品と一緒に「替え玉」と「贋作」という言葉を用いて見事に分析している。それによるとハイスミス原作で注目されるのは一人二役の必死のゲーム」であり「本体を消した分身なればこそ、存在していれば当然かかってくる逮捕を免れている」そのため「鏡の国まで追いかけないとリプリーを捕まえることはできないだろう」ということだ。

映画『リプリー』ではまさしくこの「一人二役の必死のゲーム」が痛々しいほど伝わってくる。アラン・ドロンではなく、マット・デイモンならではの演技が冴えるのはこの「痛々しさ」においてだ。それだけをとってもデイモンの演技は素晴らしいと言えるだろう。

そして「風景」。色彩豊かな映像がとても美しい。これこそ映画を観る一つの楽しみだと思う。リプリーによるディッキー殺害シーンも息を飲むほど美麗であり官能的でさえあった。そういった魅力的なシーンの連続にまさしく酩酊させられた。



関連リンク

浅田彰 「太陽がいっぱい」から「リプリー」へ