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性格と時間 生の経験との関係について


マーサ・ヌスバウムの「幸福な生の傷つきやすさ 生きることとその悲惨さ」*1より。アリストテレスの『弁論術』における性格と年齢の関係についての考察──”この観察は逆境や不運を経験することがどれほど性格それ自体を傷つけうるかを明瞭に示している。”

若者は年長のものがもはや普通には持つことができないようなある種の性格的長所を持っている。すなわち、ある種の高貴な単純さ、つまり陰険さ・底意と対比される率直さ・悪意のなさである。「というのも彼らはまだ多くの邪悪さを経験していないからである」。それほど騙されたことがないので人を信頼する。高い希望に満ちているので勇気があり自身にあふれている。若者は心のおおらかさというアリストテレスのいう中心的な徳の一つを持っている。「というのも、彼らはまだ生活のために卑屈になっておらず、やむをえないことを経験してはいないからである」。若者はあまり金に執着しない。そうした必要をほとんど経験していないからである。若者は容易に友達になる。他人と交際することに喜びを見出し利益という観点からすべてを見ることをしないからである。若者は同情しやすい。他人に対して好意を持ち、したがってまた他人が不正を被っていると信じやすいからである。若者は笑うのが好きである。そこで若者は洒落気という社会的な徳を持っている。若者は行過ぎるという傾向性も持っている。アリストテレスによれば、これは若者の経験が少ないことと感情の激しさから生じてくるものである。しかしこれら一連の観察の中で最も興味深いのは、若者が不幸な経験をしていないというそのことゆえに、ある種のよきこと・すばらしきことに与っているということである。
このことが何を意味しているのかをより明確に見るためには、年長者の性格についての説明を検討すべきであろう。年長者の欠点は、まさに年長者が、人への信頼と希望に満ちた若者がまだ経験していない生活の経験を積んでいることに由来しているからである。……。

老人たちは、長い年月を生き、何度も騙され失敗も重ねてきており、また多くのことはまずい結果になることが多いということも経験してきているので、何一つ確信をもって主張することはなく、いつも実際よりも控えめに主張する。彼らは思ってはいるが、知ってはいない。問題となっていることについて双方の見解を持っているので、「おそらく」とか「多分」といった言葉を付け加える。何についてであれ、こうした話し方をして、何一つ断言をしない。また彼らは、底意に満ちている。というのも、ものごとを悪いほうへ解釈するのが底意だからである。さらに、信頼することを欠いているために、過度に疑い深いが、信頼することができないのは、その経験ゆえである。そしてまたこうした理由から、人を激しく愛すことも憎むこともない。ただビアスの言にしたがって、明日には憎むことになるかのように愛し、明日には愛するように憎むのである。また、生活のために心が狭量になっている。
というのも、彼らは何一つ大きなことや素晴らしいことを求めず、ただ生活に合ったものだけを求めるからである。また彼らは、けちである。というのも、財産は生活に欠かせないものであり、これまでの経験から、財産は手に入れるのがいかに困難で、失うのがいかに容易であるかを知っているからである。また彼らは、臆病であって何ごとについても先行きを恐れる。というのも、彼らは、この点では、若者と対極的な性格を持っているからである。というのも、若者は熱いが、彼らは冷えており、それゆえ、老齢は臆病への道を用意しているからである。恐れとは一種の冷えであるからである。……また彼らは、過度に自分を愛する。というのも、これもまた心の狭量さの一つであるからである。また彼らは、必要以上に利益を求めて生き、高潔さを求めることはないが、これも自分を愛するからである。というのも、利益は自身にとってよいことであるが、高潔さは端的によいことである。……さらに老人もまた憐みを感じやすいが、しかし若者と同じ理由からではない。というのも、若者は人間への愛ゆえにそう感じるのであるが、老人は弱さのためにそう感じるからである。というのも、あらゆる不幸が自分たちを待っていると考え、このことが憐れみを掻きたてるのである。そういうわけで彼らは、愚痴をこぼし、洒落をとばすことも笑いを好むこともない。

この注目すべき所見は、アリストテレスが生活を取り巻く状況が性格それ自身に与える影響、場合によってはすでに獲得している徳を維持することさえ困難なものとするような影響を与えるということをどれほど重視していたかを示している。とりわけ、自己防衛というよりは率直さや悪意のなさ、自己を守るための疑い深さというよりは、他人やこの世界への信頼といったことを必要とするような徳は、この種のリスクを負っている。こうした要素を必要とはしない徳はほとんどないとアリストテレスは考えているように思われる。愛や友愛は相手への信頼を必要としている。



マーサ・C・ヌスバウム「幸福な生の傷つきやすさ 生きることとその悲惨さ」(高橋久一郎 訳、『現代思想』8/1999 vol.27-9、青土社)p.206-208

だから──とヌスバウムは続ける。他人を信頼する人は、心を閉ざしている人よりも裏切りにあう。裏切りを経験する。善い人は、悪い人よりも、性格それ自体が影響を受けるリスクを負っている。徳は、実のところ、自分自身の不幸の種を含んでいるのである、と。



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*1:Martha Nussbaum, The vulnerability of the good human life: activity and disaster