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メタ・オリエンタリズムの「ポップな」文化-倶楽部


シノワズリー」が単なる「中国趣味」を意味するのではなく、それが差別的語感を含んでいるという前提で論じられなければならないこと。作家の眼差しの位置に注目し、日本人が「支那」という差別的ニュアンスの言葉を連想、使用する状況を捉えること──オリエントの人間は、なによりもまず東洋人(オリエンタル)であって、人間であることは二の次であった(エドワード・サイードオリエンタリズム』)。80年代に日本で製作された「メタ・シノワズリー」の映像=テレビCMを契機に。

覚えておられるだろうか、ひところイギリスのポップ歌手で「九時から五時まで」とかいくつか大ヒット曲をもつシーナ・イーストンをフューチャーした宝焼酎「純」のテレビCMがえらく人気だったことがある。外人の女の子が日本の着物を着て、歌舞伎の黒子を交えてたちまわる異様な絵柄で驚いた。小柄なシーナ・シーストンだからなんとか見られたのだが、どぎつい口紅なんかまことに不調和なもので、このCF作家は一体なにを考えているのかなと思ったが、考えてみればヨーローッパ人が抱く「ジャポニズム」というか日本のイメージがそういうものなのである。それをそっくりブラウン管に像としてつくりだした作家の戦略にうーんとうなった。要するに一人のヨーロッパ人として日本を見させられる仕掛けで、すると画面を横断する紛れもない広告の漢字がそのイリュージョンを破る。あるいは一人のヨーロッパ人として見るがゆえに、その漢字に不思議なエグゾティシズムさえ感じる。いずれにせよ、ポストモダンに移行しようとすれば、さしあたりわれわれ日本人であるしかない人種が経験しないではすまされない、ヨーロッパとアジアをめぐる感覚のエア・ポケット状態を、この作家はそのふてぶてしいジョークのネタにしているのだった。


高山宏「1986年のシノワズリー ──東方に宝あり」(『庭の綺想学 近代西欧とピクチャレスク美学』所収、ありな書房) p.114 *1

宝焼酎CM シーナ・イーストン

次につくられた「純」と「CANチューハイ」のCFのことだが、企画制作の人間たち(東急エージェンシー、演出早川和良)が右のような文化的ジョークをめざしていることがはっきりしたウィット満点の作品だった。今考えても、CFとして近来の大傑作ではなかったかと思う。三蔵法師孫悟空の一行が天竺へと西天取経の旅に出る話『孫悟空』を下敷きにした、あれである。
三蔵に扮しているのはロック・バンド〈カルチャー・クラブ〉の美男歌手というより美「女」歌手のボーイ・ジョージだった。どこか国籍も曖昧で性も曖昧なボーイ・ジョージのその曖昧さそのものがこれほどうまく映像化されたケースも珍しいと思った。『西遊記』はCMでも人気の世界だが、これほどの名作はもう出まい。三蔵の一行が砂漠の真ん中で謎めいた支那寺院の廃墟に出合うヴァージョン(地の巻・純)と、美女がいっぱい侍って彼ら一行を酒食と歌舞でもてなす饗宴の風景を描き出すヴァージョン(天の巻・CANチューハイ)、いずれもメイクといいセットといい、なかなか金がかかった映像で、見かけてから最初の一週間くらいは、本番組そっちのけでこのコマーシャルばっかり探しているような状態だった。絵もきれいだが、なにやら「文化」の根底に関わっているような感じのCF、そんな気さえしてチャンネルをザップしつづけた。「文化倶楽部」なんて漢字が流れる。なんのことはない、カルチャー・クラブを東洋の文字でどう書くか、というだけのことだ。


「1986年のシノワズリー」p.114-115

TAKARA CANチューハイ 純 CM 80年代

シノワズリーとは「シノワ」な趣味、中国趣味ということで、主に18世紀のヨーロッパ人がいろいろとエクゾティシズム(異国情緒)を求めた大ファッションのひとつとして、とくにイギリスにめざめた美的流行のことである。日本語で言えば「中国」趣味ではなく、やはり「支那」趣味と訳すべき語感を「シノワズリー」はもっている。それこそ『西遊記』や『蘇州夜曲』や『上海帰りのリル』までごちゃまぜになった憧れの魔都異邦ということでは、どうでも「支那」でなくてはならない。日本帝国主義による支那侵略を思いださせる差別的な言葉だというのだが、政治革命と公司ばかりイメージされる「中国」ではどうしても表せないレヴェルがこの「支那」という語にはある。差別と憧憬というこの二重の感覚こそは、18世紀以降ヨーロッパが中国に対して抱いてきた感情である。植民地支配と憧憬幻想がなんの矛盾もなく共存していた。

(中略)

フランス絶対王政は中央集権制度を絵に描いたような整った庭をつくりだしたが、これに対抗して「変化」ある庭をつくりだそうとしたイギリス人は「変化」に満ちた庭のイメージを支那の庭にこそ見ようとした。こうしていろいろな建造物がシンメトリーを破って一見雑然と並ぶことで、見るものの目に「変化」の喜びを与えてくれるような庭が18世紀いっぱいイギリスに満ちあふれ、「英国支那庭園」という名で呼ばれた。整った庭との違いはなんだろう、というのでイギリス人は廃墟や廃園をつくりだした。ギザギザしたもの、ザラザラしたものを当時の人は「ラギッド」なものと呼んで、イギリスではそれが支那の同意語となった。ボーイ・ジョージ三蔵法師玄奘が見る砂漠の中の支那寺院のみごとなばかりの廃墟が、まさに18世紀英国支那庭園のイメージそのものなのである。
われわれから見れば、アラビアも、インドも、中国もすべてごっちゃになった、要するに怪物としか思えないタピストリーの模様であったり、庭であったりする。表層の文化、変化の文化ということでヨーロッパが「支那」をイメージしてきたと言ってみたが、支那にはこうした混淆(フュージョン)の文化としてのイメージも担わされた気配である。(……)
こうしたごっちゃのオリエンタリズムに、さらに「ジャポニズム」が加わって、ほとんど見境がつかなくなっていたことはすでに知られているとおりである。世紀末オリエンタリズムの絵では、もはや支那もアラビアも日本も区別がつかない。
要するに18世紀半ばにしろ、19世紀末にしろ、これは今風に言えば猛烈にポップな時代だったのである。したがって大雑把に言えば、シノワズリーはそれを流行させた時代の「ポップ」度のこのうえないバロメーターになるのだ。(……)
ファッションの論理が必要としているのは、表層と変化と混淆を許してくれるエクゾティック・スペースとしての支那のイメージなのであって、現実の中国ではない。
(……)
ところが、このCF(宝酒造の「イギリス人」を起用した映像)がまぎれもなく日本のCFであって、決してイギリス人によるものではないところに、ふらりと眩暈を感じるのである。もしこれがイギリスのCFなら、たぶんハハアン、あいつらしょうがねえな、いまだにシノワズリーか、ですむだろうが、むしろ今のわれわれ日本人とはなんなのかを映しだそうとするなかなか手のこんだ合わせ鏡に、このCFはなってしまっているのではないか。先に差別と憧憬と言ったが、この映像を見て、あらゆるエクゾティシズムが孕む差別イデオロギーに、「他者の記号」(ツヴェタン・トドロフ)に思いをいたすか、それとも「アア綺麗、アア珍しい」と感じるか、今日本はおそらく感性の岐路にある。「驚異」がすべて他者抑圧の具であることは、『驚異と占有』のスティーヴン・グリーンブラットの指摘を俟つまでもない。
たとえば、パレスチナエドワード・サイードが『オリエンタリズム』以下の本で展開するイデオロギー的な「オリエンタリズム」批判の線をそっくり二番煎じ的に引き受けていくのか、それとも現実の飢餓と政変のアジアはひとまず括弧に入れ、18世紀のヨーロッパ人を真似て、表層のアジア、変化のアジアというアジア・イメージに旅行者の眼差しを注いでいくのか。
この世紀末に向け、アジア自体がこの表層化の線で自己浮揚しはじめているように思う。自らの欲望のかたちをアジアに投影していこうとするわれわれの「ヨーロッパ」する恥知らずの眼差しを、「東方に宝あり」というCFがえぐりだしていた。


「1986年のシノワズリー」p.116-121

庭の綺想学―近代西欧とピクチャレスク美学

庭の綺想学―近代西欧とピクチャレスク美学


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*1:初出は『スタジオ・ヴォイス』1986年