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ラミン・バーラミの《フーガの技法》



イランのテヘラン生まれのピアニスト、ラミン・バーラミ(Ramin Bahrami、1976)によるヨハン・セバスティアン・バッハの《フーガの技法BWV 1080 を聴いた。

Art of the Fugue

Art of the Fugue


まず音楽を聴く前に、ラミン・バーラミはイラン出身ということで、その経歴が気になった。それでブックレットや彼のウェブサイトなどを読んでみたのだが、現在もイラン国籍を有しているのか、あるいはどういう経緯で「西洋音楽」に接するようになったのか……などについては記されていなかった。記されていたのは、バーラミは、イタリアとドイツで教育を受け、アレクシス・ワイセンベルク/Alexis Weissenberg、アンドラーシュ・シフ/Andras Schiff、ロバート・レヴィン/Robert Levin、バッハ研究者としても著名なロザリン・テューレック/Rosalyn Tureck*1らに師事、現在はヨーロッパで演奏活動をしていること、である。
(ただ、これだけの情報から──あるいは「その文脈」から、浮かび上がってくることがある。それはバーラミが師事したピアニスト=教師が、ワイセンベルクにしてもシフにしても、レヴィン、トゥーレックにしてもユダヤ系であるということだ。)


[Ramin Bahrami]

そして音楽。バッハの《フーガの技法》は僕の大好きな曲であるし、その音楽の世界をピアノの響きの中で体験することができて、とてもよかった。最初の「コントラプンクトゥス 1」から最後の、未完のフーガ(「コントラプンクトゥス 14」)へ到達するまでの約78分という時間は、とても濃密であった。
Ramin Bahrami -- Contrapunctus



とくに「コントラプンクトゥス 14」が素晴らしかった。どうしても去年聴いて、それ以来ずっと聴いているピエール=ローラン・エマール/Pierre-Laurent Aimard の演奏と比べてしまうのだが……エマールがこの最後のフーガを7'18で弾くのに対し、ラミン・バーラミはそれより2分以上も遅い9'40で弾く。エマールは最後のフーガでクライマックスを築くようにテンポを速め、ドラマティックな感じになる。バーラミは遅いテンポで静かにピアノを鳴らす。テンポが遅いと、ピアノの場合、ヴァイオリンやオルガンと違って音がすぐに減衰してしまうのだが、バーラミはそこにトリルや装飾音を入れたりして音を伸ばす──その効果にハッとさせられた。
なんだか──演奏様式の「文脈」を無視していえば──なんだかそこに、まるでショパンノクターンにも通じる抑えがたい情動を感じた。そしてそれに続くバッハの名前の四文字に基づく”B-A-C-H”の音形……バッハの名前は旋律になる、美しく悲しい旋律に。

奇妙だが本当だ。事実、その旋律を、彼の最も精緻な音楽作品の中へ巧妙に入り込ませている──つまり、『フーガの技法』の最後のコントラプンクトゥスのなかへ。これはバッハが書いた最後のフーガだ。ぼくはこれを初めて聴いたとき、どう終わるのか、見当もつかなかったね。突然、なんの警告もなしに、ふっと中断するんだよ。そしてそれから……死んだような静寂。

ぼくはすぐさま、そこでバッハが死んだのだと理解した。とても言い表せないくらい悲しい瞬間だ。そしてそれが僕に及ぼした効果は──もうどうしようもないって感じ。とにかく、B─A─C─H はそのフーガの最後の主題なんだ。それが曲のなかに隠されている。バッハははっきり指摘していないけれど、しかしそのことを知っていれば苦もなく見つけられるね。ほんと──いろいろなものを巧妙に隠す手がたくさんあるんだな、音楽には……




ダグラス・R・ホフスタッター『ゲーデル, エッシャー, バッハ』(野崎明弘/はやし・はじめ/柳瀬尚紀 訳、白揚社) p.95



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*1:ラミン・バーラミは他にも3枚 Decca からCDをリリースをしているが、それらはすべてJ.S.バッハである