注文していたケネス・アンガーのDVD『Films of Kenneth Anger』*1が届いたので、早速観た。
「あの眼もくらむ灼熱感、それは、いまかれを全身的におそっている」と、大江健三郎の『われらの時代』の一節を引用したくなる──そんな印象を、この映像作品集から受けた。
初めて観た『我が悪魔の兄弟の呪文』(Invocation Of My Demon Brother)は、もちろん、強烈に官能的だったが、それよりもアナイス・ニンが出演している『快楽園の創造』(Inauguration of the Pleasure Dome)に「うっ」ときた。なぜならこの作品の音楽がレオシュ・ヤナーチェクの『グラゴル・ミサ』(Glagolská mše、Glagolitic Mass)だったからだ。この映像に、この音楽。ゲイ・シネマ『花火』(Fireworks)でもレスピーギの『ローマの祭り』から《チルチェンセス》が使用されていたように、アンガーの音楽のチョイスには、個人的にグッとくるものがある──暴力的なエロティシズムを湛えた映像にキリスト教徒迫害を想起させる音楽や「ミサ曲」が流れるのだ。
……人民は巡察隊や親衛軍のキリスト教徒狩りに進んで協力した。これはさして困難な仕事ではなかった。なぜならキリスト教徒たちは、大群をなしてまだ一般の人民といっしょにほうぼうの庭園の真ん中に宿営していて、──公然と信仰を告白したからである。
彼らは包囲されると、ひざまづいて賛美歌を歌いながら、抵抗もせずにひかれていった。しかしこうした忍耐強さは人民の怒りをかきたてるばかりであった。人民はこの忍耐強さの原因が理解できないままに、これをあくまでも罪悪に固執する手のつけられぬ頑迷さと受け取った。
(中略)
人びとはさながら人間の言葉を忘れ、恐ろしい錯乱におちいって、《キリスト教徒を獅子に食わせろ!》というただひとつの叫びしかおぼえていないようであった。ふしぎなほど暑い日と、かつてなかったほど息苦しい夜がきた。空気さえ狂乱と血と業罪がしみ渡っているようであった。
この度を越した残虐さに応えたのは、同じく度を越した殉教への熱望であった。
Glagolitic Mass / Diary of One Who Disappered
- アーティスト: Leoš Janáček
- 出版社/メーカー: Dg Imports
- 発売日: 2002/07/16
- メディア: CD
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フランス人にカトリックの伝統があるからといって、フランス文化にキリスト教の血が遺伝のように業ふかく根をおろしているからといって、現代日本の人間および文化とそれとに断絶があると考えるのは怠惰な思想である。日本の少数のカトリックの信者は、西欧の内臓へとたどりつく手がかりとしてカトリック信仰をもつかわりに無信仰の他の日本人にたいするスノッブ的な選良意識を満足させるために神にいのり罪の意識をさけぶ。
しかし現代フランスの若者と日本の若者とは、血まみれになってたおれた神、絶望的に破壊された礼拝堂のある暗い土地とは別の、もっとすさまじい場所で手をにぎる。神はかれらの頭上にもわれらの頭上にもいない。われらとかれらのあいだの断絶は人間的(政治的)な溝であり、われらの手、人間によってうずめられるべきものである。ああ、神よ、神よと叫ぶ者ら……
そして……『快楽園の創造』の”pleasure dome”は、イギリスのロマン派の詩人サミュエル・テイラー・コールリッジの『クーブラカーン』(Kubla Khan)からきていると書いたが、そのコールリッジに関して興味深い記述が書いてある本を My Bookshelf から見つけた。引用しておきたい。
ただここで誤解をまねかないために、付け加えなければならない。異端とはかならずしも反キリストであるという意味ではない。美的見地からの異端である。柔軟な想像力も異端に近いのだ。
ロマン主義者といえどもキリスト教徒である。例えば、コウリッジの父は聖職者であり、彼はキリスト教については並以上に知識をもっていたはずである。だか、彼やワーズワースも、結局は柔軟な美学者であった。
聖職者やキリスト教徒といっても二派にわかれるのは、普通の社会と変わりない。つまり、保守的で頑迷なキリスト教徒とリベラルなキリスト教徒である。
リベラルなキリスト教徒で想像力と好奇心に満ちた人間であれば、神とはキリストだけでないことを簡単に認識するはずである。生命と自然という偉大な創造物に畏敬しつつ、そうした創造物のなかに生の美を確認することによって、「生のなぞ」という重厚な問題に迫り、表現しようとしたのだ。彼らは創作に従事する際、かならずしも中世騎士道精神を発揮していたわけではないだろうが、遍歴の騎士たちが夜空を仰ぎながら、夢想のうちに美神との接触を求めたように、自然と対峙しながら美神を抽象化していた。そこには正統キリスト教徒の存在はすでに見当たらない。
ワーズワースの想像力はフランス革命に刺激された面もあるが、コウリッジは『クーブラ・カン』で、麻薬の力を借りて、未知なる異国に美神を求めている。学者であり、穏健派であるコウリッジですら、正統キリスト教とは決別しようとしていた。
山田勝『決闘の社会文化史 ヨーロッパ貴族とノブレス・オブリジェ』(北星堂) p.162 *2
なんだかケネス・アンガーは僕にとって「魂の同胞」(by カミール・パーリア)のように思えてきた。とりわけウイスキーを飲んで酔った状態でアンガーの映像を観ると……すごく効く。
「それでわかった、あの男がなぜあんなにキリスト教徒をかばったか」
しかしネロは笑い出した。
「ペトロニウスがキリスト教徒だと! ……ペトロニウスが人生と快楽の敵だと! ……馬鹿なことを言うな。わしに信じろと言っても無駄だ。わしはそういうことは何ひとつ信ずる気はないぞ」
「しかし陛下、ウィニキウスさまはキリスト教徒におなりになりました。陛下のおからだから射しております光に誓って、これは真実でございます。
『クオ・ワディス』 p.405
大江健三郎『われらの時代』 p.107
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*2: