HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

関根伸一郎『ドイツの秘密情報機関』




シュタージ関連の本として、以前も触れた関根伸一郎 著『ドイツの秘密情報機関』を読み返してみた。ナチスドイツの秘密情報機関の活動から、戦後の東西ドイツによる熾烈な諜報戦の現実を把握できる。
この本によると、対外諜報部門の長マルクス・ヴォルフの下、西ドイツ側の政治家、その協力者、アシスタントまで、すべての人材を分類、記録するカードが作成されていたという。ヴォルフは、ジョン・ル・カレの『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』などに登場するスマイリーの宿敵、カーラのモデルになった人物だ。

スパイ活動のコンセプトは、「いかに西側ブルジョワ社会で資本家が民衆から搾取し、いかに抑圧と劣悪の状態で市民が生活しているかの証拠を探り出す」こと、そして、西側を叩く政府首脳の演説材料を提供することだった。ヴォルフ(マルクス・ヴォルフ)のスパイ陣は、西側首脳を黙らせる爆弾情報をしばしば提供した。
また、内政面での監視を強めるため、1950年2月8日、内務省から分離し、国家保安省に属するようになった「中央局」の設置が決議された。


当時の、東西ベルリンのスパイ合戦がこう記されている。
「市の西側に住む反共の政治家のなかには、麻酔をかけられた上、東側へ誘拐され、その後、消息不明になるケースが続出した。この種の事件は、1949年に13件、50年42件、51年36件」(『現代史ベルリン』永井清彦著)。
こうした拉致事件をシュタージは繰り返していた。





関根伸一郎『ドイツの秘密情報機関』(講談社現代新書)p.180


とくに注意を引くのが、シュタージが「難民」を利用して、シュタージ協力者を西側へ大量に送り込んだということだ。

西ドイツは通貨改革後、経済的にも「奇跡の復興」を遂げていたが、東ドイツは国土面積、資源的にも劣り、戦後、重工業施設をソ連に持ち去られ、ソ連への賠償など、不利な出発を余儀なくされていた。農業政策では、ある程度の成長が見られたが、農業集団化の問題で行きづまっていた。そうした停滞する経済状況の中、ソビエト化された体制に対する国民の不満は高まり、西側に逃亡する難民の数もうなぎ登りに上がった。1949年から(ベルリンの)壁構築の1961年までに、270万人あまりの難民が西ドイツに押し寄せた。


こうした混沌とした政情は、シュタージ協力者を西ドイツに侵入させるには絶好の状況だった。親戚を頼って西側に潜入する難民の中に、長年の待機の時間を前提にした、非公式のスパイ(IM)の芽が次々と移植された。このこと移植された芽は、1980年代になってスパイの芽を出した。




『ドイツの秘密情報機関』 p.181


この難民を利用してスパイを送り込むという「作戦」はソ連KGBも行っていた。最近読んだ海野弘『スパイの世界史』にもハンガリー動乱を巧妙に利用した「細胞作り」が記されている。

動乱がはじまると、民衆は日頃憎んでいた AVH(KGBの監督下にあるハンガリーの秘密警察)に襲いかかった。そのため、多くの AVH は逃亡しなければならなかった。またアンドロポフが反対派にもぐりこませた工作員も、動乱の中で姿をかくさなければならなかった。彼らはどこへ行ったのか。数十万の難民の中にまぎれていたのである。難民はアメリカやイギリスに受け入れられた。
実は、KGB にとってこれほどすばらしい機会はなかったのである。



「西ヨーロッパや合衆国の至るところに広がりはじめた亡命ハンガリー人の流れのなかには、職を失った AVH 職員やソ連の浸透工作員が混じっていた。ハンガリーにおけるソ連支配が再建されたとき、アンドロポフは、動乱が流血を伴ったにせよ、機関に思わぬ副次的な利益をもたらしたと考えた。かくも多くの訓練された工作員が、計り知れない広い範囲に、きわめて短期間に拡散したことはかつてなかったのである。」(ウィリアム・R・コーソン、ロバート・T・クローリー『フェリックスの末裔たち』)



三百人もの工作員が、西側政府や国連などの費用で、カナダ、アメリカ、フランス、イタリア、イギリスにばらまかれたのである。もちろんばらばらで、互いに連絡を失っていたが、KGB はじっくり彼らを拾い集め、再雇用して、世界的なネットワークがつくられていった。アンドロポフはその功績で昇進していった。
ハンガリー動乱が、難民とともに KGB 工作員を世界中に運んだ、という指摘には思わずうならされる。




海野弘スパイの世界史 (文春文庫)』 p.390-391

ブラント首相を失脚させた東独スパイ、ギュンター・ギヨームも「難民として」1956年に西ドイツに潜入していた。


→ ギヨーム事件 [ウィキペディア]

1956年、ギヨーム夫妻は、難民に偽装して西ドイツに入国した。ギヨームは、1970年1月28日から首相官房で働き始め、1972年にはヴィリー・ブラント首相の個人秘書にまで出世した。この瞬間から西ドイツの政策、特に「東方政策」の内容は東ドイツにとって秘密ではなくなった。


1973年5月24日、西ドイツの連邦憲法擁護庁にギヨームがシュタージのスパイ「ゲオルグ」であることを示唆する報告書が提出された。ギヨームは、11ヶ月間監視下に置かれたが、現行犯逮捕されるミスを犯さず、シュタージの密使と会見し続けた。


1974年1月、西ドイツの検察当局は、証拠不十分のためギヨームに対する逮捕令状の申請を却下した。1974年4月24日、ギヨームは彼を逮捕しに来た警察官に対して、「私はドイツ民主共和国国家人民軍の将校で、国家保安省職員である。将校としての私の名誉を尊重することを望む」と告白した。この事実は、直ちにブラント首相に報告され、後に彼自身の辞任の原因ともなった。


1975年12月15日、ギヨームは禁固15年(妻クリステルは8年)を言い渡されたが、1981年10月、西ドイツのエージェント8人と交換で釈放された(妻クリステルは6人と交換)。その後、ギヨームはシュタージの諜報学校で講義を行い、1995年に死去した。

ヴォルフは二つの戦術を考えた。一つは「縫い目なき潜入」(シームレス・ペネトレーション)で、ドイツから他の国に移った人のパスポートを手に入れ、そこに記された特徴にできるだけ近い人間をさがして、本人になりすまして西ドイツにもぐりこむのである。
もう一つは「秘書攻撃」なるもので、ハンサムな若い男のスパイに西ドイツ政府で働く女性秘書たちを誘惑させ、情報を取るというものである。





海野弘『スパイの世界史』 p.396

中央偵察管理局の諜報、防諜活動は、西側諸国、特に、西ドイツ、アメリカの経済、政治、軍事分野におよび、電子精密部分などに関する産業スパイ的活動も行われた。軍事面では、冷戦を背景に、西ドイツ軍、NATO の情報収集に積極的に参与し、政治面でも西ドイツの政局に敏感に反応した。
政党や左翼、右翼過激派の動向には終始注目し、それらの組織内にスパイを潜入させた。


情報を確実に得られる人脈の探索も中央偵察管理局の任務で、重要ポストの女性秘書などに近づき、人脈を作ることも重視された。


また、8部の専門である盗聴技術を駆使しての諜報活動も行われた。IM(非公式要員)とされる、いわゆる、第三者を味方に導き、諜報提供網を確実にすることも重要で、膨大な数のIMによる監視、情報提供、報告が重要な情報源であった。ドイツ統一後、暴かれたシュタージの書類によって、隣人や仲間が密告者だった事実が明らかになり、一般市民が受けた衝撃は凄まじかった。




『ドイツの秘密情報機関』 p.208


ドイツの秘密情報機関 (講談社現代新書)

ドイツの秘密情報機関 (講談社現代新書)