HODGE'S PARROT

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断ちきられた歌/なき子をしのぶ歌



≪断ちきられた歌≫は深い幻滅から生まれた音楽である。痛みと告発がそこにはある。宗教と人種の違いを理由として多くの人々が迫害され、拷問にかけられ、命を奪われた時に引き起こされたおぞましい破局を忘れてはならない。我々の歴史の最も暗い年月がそのことをつねに思い出させてくれる。
その≪断ちきられた歌≫がグスタフ・マーラーの歌曲(歌っているのは旧ユーゴスラヴィア出身のマイヤール・リポヴシェク。彼女の祖国は今まさに、かつてのドイツと同じように無意味な暴力と抑圧に踏みにじられている)とカップリングされて世に出る。それはベルリン・フィルクラウディオ・アバドからのメッセージである。異なる考え方をとる人々に対するあらゆる残虐さと暴力を我々は絶対に許さないというメッセージである。ベルリン・フィルのオーケストラ・アカデミーを支援する我々もまた、世界のどこであろうと行使される全ての暴力を音楽によって告発するこのレコーディングを断固として支持する。このレコーディングは平和を訴えるメッセージそのものである。

このCDは上記のような趣旨を持っている。ルイジ・ノーノの≪断ちきられた歌(イル・カント・ソスペーソ)/IL CANT SOSPESO≫(1955-56)、グスタフ・マーラーの≪なき子をしのぶ歌/KINDERTOTENLIEDER≫を中心とした、音楽による差別と暴虐への告発である。
とくにノーノの作品は、実際にファシズムの犠牲になった人々(レジスタンス)が死の間際に残した手紙を使用し、激烈な表現を行っている。高度に前衛的な手法が採用されているが、それは鈍化し馴化した知覚を「変革」するために、ひいては社会を「変革」するために、必要とされる要請なのだ。
美的な活動と政治的な活動は切り離せない。その乖離はありえない。それがノーノの創作に対する態度である。それゆえ政治メッセージが、聞き取れるか/聞き取れないか、をめぐってノーノとシュトックハウゼンは決裂した。

このCDには楽曲としての≪断ちきられた歌≫の他に、ノーノが選んだ、ナチスの犠牲となった人たちの手紙が、まさに「中断された歌」として、朗読される。スザンネ・ロタールとブルーノ・ガンツによって。

親愛なるお父さん、お母さん

もしも、空が紙でできていて、海という海がインクだったとしても、僕は、僕の苦しみや、僕のまわりにあることすべてを、お父さんとお母さんに書いて説明することはできないでしょう。収容所は、森のなかの空き地にあります。朝早くから僕らは、無理やり森のなかへ連れていかれて、働かされます。
僕の足は血だらけです。僕はくつを取り上げられたからです。僕らは、一日中、ほとんど何も食べずに働いて、夜は地べたに寝ます(僕らは、コートも取り上げられたんだ)。毎晩毎晩、酔っぱらった兵士が僕らを棒で打ちにきます。僕は、身体じゅう血腫で黒ずんでしまって、黒こげになった木の切れ端のようです。時々、僕らに、少しばかりの茹でたにんじんやビートを投げてよこす奴がいますが、それは恥ずべきことです。ここでは、争いあってようやく、ほんの小さな固まりか。薄っぺらい切れ端を手にいれるのです。


昨日は、少年が二人、脱走しました。彼らは僕らを一列に並べて、五人のうちの一人を銃殺しました。僕は、五人目ではありませんでしたが、ここから生きて出られないことはわかっています。僕はみなさんにさようならを言います。そして泣いています……




シャイム(?)、ポーランド、14歳、農民の子

……私は死ぬのはこわくない……
……私は、私の死刑執行団の前に、平静に、落ち着きをもって出頭するだろう。私たちに有罪の判決を下した人たちもこれほど平静だろうか?……
……僕は、君たちによりよい人生があると信じて、去っていく。心を強くもとうではないか……



第9曲

ノーノ:断ちきられた歌、マーラー:亡き子をしのぶ歌

ノーノ:断ちきられた歌、マーラー:亡き子をしのぶ歌


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