HODGE'S PARROT

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弔鐘 マロニエの木のムカつき




昨日のことだ。たまたま連休(建国記念日)ということで、「はてなブックマーク」にコメントを書いたり、それに付随する状況を、情報として収集する「余裕」があった。しかし気分が悪くなった──吐き気を覚えた。臆面もない、むき出しの、しかし「知的な」エクリチュールとやらに。よりにもよって、今日という日にだ。
で、気分転換に、日本橋高島屋にある「グラマシーニューヨーク」(GRAMERCY NEW YORK)のチーズケーキでも買ってきて食べようと出かけた。が、何だこの人だかりは! と思うくらい地下の食品売り場は人で溢れていた。チョコレートを買う人でごったがえしていた。それであのベルギー製のチョコレートを見ていたら、また吐き気がしてきた。なぜだか分らない。目的のケーキを買って、家に戻り、いろいろと本を読んだ──意味もなく。

パスカルは「確かに、財産の平等ということは正しい。だが〔……〕ひとは正義に従うことが力であるようにできなかったので、力に従うことが正しいとしたのである。正しいものと強いものとがいっしょになって、至上善である平和がもたらされるために、ひとは、正義を強化できないので、力を正当化したのである」と述べた。


この文章で重要なことは、そこに一貫する形式主義的論理である。正義の形式はその内容よりももっと重大なのだ──正義の形式は、たとえそれがその内容に関わっているその対極、すなわち不正義の形式であっても、維持されねばならない。また次のように付け加えることもできるだろう。すなわち、形式と内容とのズレは、たんに固有で不幸な境位の結果ではなく、正義という観念を構成する境位-要素にほかならないのだ、と。正義とは、「それ自体に措いて」、それ自身のまさに観念に措いて、不正義の形式、すなわち「正当-正義化された力」なのだ。


(権)力の政治的利害によってその結果が予め定められているようなイカサマ裁判を論じるとき、ふつう私たちは、それは正義を装っているが、じつは剥き出しの権力あるいは正義を装う腐敗の現われ、たんなる「正義擬き」にすぎないと言ったりするだろう。だがじつは、正義こそ、そのまさに概念の成り立ちに措いて、すなわち「それ自体」で、或る一つの擬きにほかならないとしたらどうだろう? これが、(権)力が正義に就かないのであれば、正義が(権)力に就かねばならない、と諦め気味に結論づけるパスカルの言明が含意したことではないのか?


<正義>の究極的な地位とは、そのもっとも純粋でもっとも根源的な意味における、ファンタジーではないのか? デリダが言ったように、脱構築フランクフルト学派においてさえ、<正義>は「脱構築不能な」最終的地平として機能している。<正義>は推論からも経験からも到来しないにせよ、それは私たちの経験に絶対的に内在し、直感的に前提されねばならない。



(中略)



私たちは、それがファンタジーであることを分ってはいる、だが分っていても猶、それに依拠せねばならない。<正義>は倫理と存在論との密やかな連結を規定する。世界(ユニバース)には正義が、その隠された基本的原理として、存在せねばならない。こうした神学的地平に、「脱構築」さえ留まっている。だからこそ無神論であることがなぜかくも困難かが分るのである。




スラヴォイ・ジジェク『身体なき器官』(長原豊 訳、河出書房新社) p.79-80

思考を特殊なものの活動ととらえれば、思考の産物ないし内容としてはカテゴリーしか残らない。分析的知性の確定するそのカテゴリーは、限定された規定であり、条件つきの、他に依存する、媒介されたものの形式である。条件つきの、他に依存する、媒介されたものしか相手にしない思考は、無限の真理とは無縁だ。無限の真理に通じる道をもたない(神の存在証明を認められない)。


が、こうした思考の内容たる有限な思考規定も、「概念」と名づけられる。となると、対象を概念的に把握するということが、対象を、条件つきの、媒介されたものの形式のうちにとらえる、という意味になる。そして対象が無限にして無条件の真理と考えられるとすれば、対象を概念的にとらえるとは、対象を条件つきの媒介されたものに転化すること、つまり、真理を思考によってとらえるのではなく、真理を非真理へとねじまげることになってしまう。




ヘーゲル『論理学』(長谷川宏 訳、作品社) p,161

彼を私は愛していた。彼と夫婦になりたかった。その結婚式には私は白の衣装で出ればいいだろう、ただし身体の節ぶしには、肱や、膝や、指の関節や、指の関節や、腰や、喉や、陰茎や、肛門には、黒い喪章のでっかい蝶結びを飾りつけ。そんな装いの私を、鳶尾の花で飾られた部屋へリトンは迎え入れてくれるだろうか? そうなれば婚礼の儀式は私の喪の悲しみと溶け合って、万事円満におさまるだろう。この勝利者の硬さを私は自分の手のなかに感じたかったのか? 彼は墓穴に片足をつっこんでいたが、生きているのは確かだった。堀や、街路や、叫びや、息づかいや、ざわめきや、ヘッドライトの光にも遮られず、スクリーンの奥へ彼は逃れ去ってしまったにもかかわらず、私の魂はいまいちど彼を見つけ出すのだった。彼は私を見つめた。にっこり笑いかけた。
「殺ったぜ、ほら。怨まないだろうな?」
《よくやった》という言葉をかりに私がつぶやいたとすれば、自分の行いにたいする、あまりにも踏みつけな仕打ちにたいする恥ずかしさから、この筋書に私は見きりをつけ、宿命をごまかすことで成り立つこの芝居の恩恵にあずかれなくなるだろう。いまやはっきり、私の眼前に、指先でまさぐる筋骨たくましい肉体にもおとらず手ごたえのあるものになった彼の映像に向って、私はこう返事するのだった。
「きみにまかせるよ、リトン。たっぷり可愛がってくれ」
私は眼をあけた。楽団が聯合国の国歌を演奏していた。




ジャン・ジュネ『葬儀』(生田耕作 訳、河出文庫) p.66-67

ロマン主義の詩人やシェリングヤコービ、或いはカントまでが、実は、人間を神格化していた。彼らにとり、人間の至高の価値である、人間は絶対的に自立している、等々……。したがって、彼らは実は無神論者であった。同様に、シュライエルマッヘルのプロテスタント神学もまたすでに無神論となっている。なぜならば(彼においては)神は人間において、そして人間により己れ自身を開示する限りで意味と実在性とをもつにすぎず、宗教は宗教心理に還元されているからである等々……。したがって、これはまったくヘーゲル無神論或いは人間-神論に近い。


にもかかわらず、これら思想家たちは神について語り続けていた。なぜであろうか。それは、ヘーゲルが今しがた述べたように、彼らは自分が語っている人間と世界の中に生きる現実の意識的な人間とを同一のものとするに至らなかったからである。彼らは「魂」や「精神」や「認識主観」等について語るが、生きた現実の、それも触れることのできる人間については語っていなかった。彼らは──あらゆるブルジョワ知識人と同じように──自己の論弁において、そしてそれにより生きる「観念的」人間を、世界の中で自己の行動において、そして行動により生きる現実の人間に対立させていた。
したがって、彼らはいまだキリスト教徒であり、人間を二分し現実に眼を塞ぐ。この観念論的二元論は身体に対立する魂や、超感覚的な「純粋」精神、或いは神に対立する経験的世界といった有神論的形態を必然的にまとうわけである。




アレクサンドル・コジェーヴヘーゲル読解入門』(上妻精+今野雅方 訳、国文社) p.111-112

直接知と哲学の主張のちがいは、直接知が自分だけが正しいといって哲学と対立するところにしかない。が、近代哲学の問題意識の全体がそれをめぐるものだったともいえるかの命題──「コギト・エルゴ・スム(われ思う、ゆえにわれあり)」──も、その創案者によって、直接知の命題のごとくに言明されているのだ。デカルトの命題を推論だと思う人は、推論というものについて、推論には「エルゴ(ゆえに)」ということばがふくまれる、という以上のことを知らないにちがいない。


媒介項はどこにあるのか。「エルゴ」ということば以上に推論にとって本質的な媒介項が、さきの命題には見つからない。それでも名称にこだわって、デカルトの文を「直接の」推論と名づけるとすれば、その冗語の意味するところは、なにものも媒介されない観念の結合ということになってしまう。となると、直接知の命題が表現する、主観的観念との結合も、推論以上でも以下でもないことになる。




ヘーゲル論理学―哲学の集大成・要綱〈第1部〉 (哲学の集大成・要綱 (第1部))』p.165-166

人間は自己に至高の価値を帰属せしめる。だが、具体的な世界に生きる者、つまりその中で行動する者としての自己にその価値を帰属せしめる勇気をいまだもっていない。すなわち、この世界を理想として受け入れるだけの勇気はいまだもっていない。それで人間は世界を超えるもの、自己の内なる純粋に心的なものに価値を与え、世界には眼を塞いでしまう。
人間は「この世に生きる者」として自己に眼を塞ぐわけである。──そしてこのように眼を塞ぐことで、人間は必然的に人間を超える神を見いだし、──実は──自己自身に帰属せしめようと望んでいた価値をこの神に帰属させるのである。




アレクサンドル・コジェーヴヘーゲル読解入門―『精神現象学』を読む』 p.112

突然彼は一種の悲哀をおぼえたのだ、ところでそれは彼に代わって私が反省するならば次のような言葉で言いあらわすことができるだろう。
「<神>なしに、もう、お前になにができるというのか?」
彼の苦悩はすぐさま驚愕で消し去られた。




ジャン・ジュネ葬儀 (河出文庫)』 p.204

事実ヘーゲルの基本的な思想のひとつに「全体は部分に先立つ」という、古代ギリシアの哲学者アリストテレスに遡る考え方がある。論理的な言い方をすれば、普遍的なものがなければ個別的なものも特殊なものも存在できない、というのである。しかしそれは、個別は普遍に解消されるとか、個別は普遍にまったく依存するということなのではない。ヘーゲルの真意は次のようになる。


ヘーゲルはこの普遍を「境位」(エレメント)ともよんでいるが、それは個別や特殊が存在するのに不可欠な「場所・場面」という意味である。たとえば、ある人がその人自身であるのは、その人ではない他の人との違いによるからであるが、その違いは、すべての人を比較可能にする共通の普遍的な基準があって初めて成り立つのである(この場合「人」がそれにあたる)。他の人と基準を何も共有しない人は、実のところ他の人とまるで比較も区別もできないし、したがって「他の」と言うことも、その人が「人」であるということもできなくなる。


ヘーゲルの言う「全体」はこのような基準の包括概念なのであって、だから、全体に属しているということが境位として先行していなければ、あるものを「部分」とよぶこともできないのである。全体というひとつの統一体のなかにあってこそ、ある者は個人として存在し、こうして個々の者の違いが、それゆえ多が成り立つからである。




今村仁司、座小田豊知の教科書 ヘーゲル (講談社選書メチエ)』 p.34-35

こうして、エイハブが「鯨に-なる」のと同様、奇妙にもドゥルーズ自身もまた「ヘーゲルに-なる」ことに取り憑かれているとしたら、どうだろう? ヘーゲルドゥルーズとの差異は、ここでは、見掛け以上に決定困難である。おおざっぱに言えば、ドゥルーズは普遍的<存在>のいかなる様式にも対立する差異の発生-生成的な過程の優位性を強調しようとしたが、ヘーゲルの目的は概念的普遍性の核芯に(自己)運動を導入することにあった、と言うこともできるだろう。だがその意味から言えば、ドゥルーズと同様、ヘーゲルもまた、「概念的唯名論者」ではないのか? ドゥルーズが個体を普遍性と理解するとき、ふたたび彼はヘーゲルの普遍としての個体性という考え方に(その特殊な性質の自己-関係的な否定に措いて)近接してはいないだろうか?


(中略)


すなわち、結局のところヘーゲルが否定性にたいして行ったことは、否定性それ自体の未聞の「肯定-実体化」ではないのか、と。



スラヴォイ・ジジェク身体なき器官』 p.108-109