HODGE'S PARROT

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撃てと命じる者を撃て



戦略的行為は、通例では、いくつかの選択可能のなかからどれかを選ぶ場合に、参加者のそれぞれを拘束する。切り札の規則や原則があらかじめ調整されているから、決断は基本的に自分のことだけを考えて、つまり特別の相互了解なしに、おこなうことができるし、またおこなわねばならない。その点で、それは、コミュニケーション行為とは区別される。


ユルゲン・ハーバマス『イデオロギーとしての技術と科学』(長谷川宏訳、平凡社ライブラリー

最近僕はリベラリズムを気取る人たちから「犠牲的(被害者)フェミニズム」と<揶揄>されることもある「第二波フェミニズム」やその影響下にある人たちに──特にその運動形態に──関心を持っている。例えばキャサリン・マッキノン。

原理というものは、現実なくしては存在しえません。一見、特定の社会現象の痕跡を完全に消し去ろうと努力したかにみえる、もっとも高度な抽象性を備えた法律上の概念も、実は社会生活のなかから生まれています。それは、特定のグループ間の交渉のなかから、我が身の安泰に疑いを抱かない支配階級の思い上がりのなかから、現実の残虐行為の傷を通して、声なき、疎外された人々の犠牲によって、権力なき人々の──たいていは妥協による、しばし多大の犠牲を伴う──勝利として、生まれているのです。法は三段論法式に否応なく誕生するわけではありません。それは支配と支配に対する挑戦という社会理論に駆りたてられ、変化と変化に対する抵抗との相互作用によって練りあげられます。


キャサリン・マッキノン『戦時の犯罪、平時の犯罪』(『人権について オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ』、中島吉弘・松田まゆみ訳、みすず書房

リベラリズムに懐疑を示すマッキノンは、したがって、「自称リベラリスト」から批判を受ける。が、それは、結局、異口同音で、「保守派に絡め取られる」という心配性でカモフラージュした高みからの<侮蔑>のように聞こえる。実際に、「脱構築」や「精神分析」を用いれば、「当事者性」を曖昧にしたまま、いくらでも「知的に」批判することができる。

しかし、本当のところマッキノンたちは、どういったことを成し遂げたのか──成し遂げてくれたのか。「サードウェイブ」の立場に近くデリダラカンの概念を駆使するリベラル・フェミニスト、ドゥルシラ・コーネルによると、

フェミニズムの「第二」の波は、それ以前には他者にとっては意味をなしえなかったような経験に名前を与えることに成功したのである。デートにおいて性的暴行を受けた女性は今では彼女に起こったことをデート・レイプとして告発することができる。上司による性的誘惑を耐え忍ばねばならなかった女性は、今ではその行為をセクシュアル・ハラスメントとして、不法行為として具体的に言い表すことができるのである。


ドゥルシラ・コーネル『自由のハートで』(仲正昌樹他訳、状況出版)

「デート・レイプ」や「セクシュアル・ハラスメント」が不法行為/犯罪として<認知>されたのは、本当に最近のことではないのか。それまでは、「そういったこと」は、犯罪として「名づけられておらず」、したがって、<それ>は「犯罪として」看做されていなかった。被害者は、被害を訴えることもできず、たとえ訴えても<それ>が「被害として」認められず、被害者は被害者になることもできず、したがって、「被害者」は自分の落ち度を責めるしかなかった。

こういった現実社会の「機能不全」をマッキノンらが是正したのではないか。『人権について』の編者スティーヴン・ショートとスーザン・ハーリーは、マッキノンが「人権法」の欠陥を矯正すべく、「形式的平等概念(観念)」を「実質的平等概念」に切り替えたことを評価している。

マッキノンについては「ポルノ規制」という「耳障りな面」ばかり強調されているが、しかしそういった「言論の自由」というリベラリズムと真っ向から対立する主張をなぜ彼女がするのかを、たとえそのこと(ポルノ規制)自体に反対するとしても、もっと「理解」してもよいのではないだろうか。
非常に微妙な──危うい──論旨だが、あえて引用してみたい。

その反乱が人間の自由のために何を達成したにせよ、そしてかりにそれが重要な価値を持つものであったとしても、アメリカの革命は奴隷を解放することなく、フランス革命マルキ・ド・サドを解放したのです。つまり両者は人間の売買を合法化すること、経済的利益のために女性を虐待すること、という意味で関連しています。理解して欲しいのは、これこそ今まで受け入れられてきた、そして大部分がいまだに受け入れられている平等の概念が意味するものだということです。


キャサリン・マッキノン『戦時の犯罪、平時の犯罪』

ここでマッキノンが言っているのは、女性が平等な扱いを受けるために必要な<保障>がないときに、しかし一方、男性には「女性に対する不平等な扱い」を<許す>市民的自由が<保障>されていたこと、<それ>は、あからさまではないにしても、<暗黙>のうちに<容認>されていたことだ。
その状況はどんなことを意味するか。

女性が人間としての資格を求めても、その主張は取るに足らないとして否定されている

セクシュアル・ハラスメントやデート・レイプ、あるいはドメスティック・バイオレンス(DV)が、なぜ、最近の「概念」なのか。それは、そういったことを訴えても「その主張は取るに足らないと否定されて」きたからなのではないか。あるいは「被害者」が、「その被害」を「被害として」<認識>できないほど、<それ>が当然のこととして<容認>されてきたからなのではないか。

マッキノンとは立場を異にするドゥルシラ・コーネルもそれに近いことを言っている。

私たちの性差についての諸々の評価や表象の源泉が私たち自身であることが承認されることを可能にする権利概念はどのようなものであり、どのようにしてそれを正当化すべきなのだろうか? まず第一に、法の前でかつ社会の基礎的な諸制度内において、女性が自由で平等(equal)な人格として評価され、その不可侵性が何らかの高次の善の名の下に容易に覆されてしまうことがないようなものになることを要求しなければならない。カントに従えば、私たちは社会のあらゆる構成員の自由を、まさに彼が人間であるがゆえに特権化すべきなのである。女性にとっては、まさにこの自由が歴史的に拒否されてきたのである。


ドゥルシラ・コーネル『自由のハートで』

言うまでもなく、僕がマッキノンの議論にいろいろと考えさせられるのは、彼女たちが主題にする「女性」を「同性愛者」に置き換えて読んでいる/パラフレーズしているからだ(ドゥルシラ・コーネルは、直接的にゲイやレズビアンに言及し、彼女の自由/平等概念の射程を広げていく。コーネルの「イマジナリーの領域」という概念は、とても興味深い)

そして僕が川原泉の「ヘイトスピーチ」を「問題化」するのは、まさしくここに関係する。「同性愛者に対する不平等な扱い」を<容認>している社会において、一方、異性愛者の<それ>を行う「市民的自由」が<保障>されている。同性愛者に対する差別発言、侮蔑発言(ヘイトスピーチ)が、「不法行為」として、看做されない。「被害」を「被害として」訴えられない。その主張が「取るに足らないもの」として無視される。川原は、明らかに同性愛者の<人格>を貶める表現を──しかも「子供が見る」マンガで──行っている。
なぜ、そんなことをするのか、いや、問題は、なぜ、そういったことが<容認>されるのかだ。

当事者である主体だけが、人格の侵害にたいして、攻撃者から能動的に自分の手で自分の身を守ることによって適切に対応することができるのである。侵害された者による抵抗というかたちをとった、張本人にたいする犯罪のこのような「反作用」は、ヘーゲルが「闘争」という概念ではっきりと証明するあらゆるできごとの最初の一連の行動なのである。そこで生じるのが、「人格」の「人格」にたいする闘争、すなわち権利能力をそなえたふたりの主体のあいだの闘争である。
(中略)
こうして、ヘーゲルは、「(ある人格の)すべてが賭けられている」という理由で、侮辱によってもたらされる社会的コンフリクトを、死と生をめぐる闘争、すなわちつねに法を後ろ盾にした権利主張の領域の外部でおこなわれる闘争へと転化する。


アクセル・ホネット『承認をめぐる闘争』(山本啓・直江清隆訳、法政大学出版局

イデオロギーとしての技術と科学 (平凡社ライブラリー)

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人権について―オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ

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自由のハートで

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承認をめぐる闘争―社会的コンフリクトの道徳的文法 (叢書・ウニベルシタス)

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